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【ひょこむ】地域SNS防災訓練 - トピック返信
(訓練)2016年3月11日~12日のこたつ
【返信元】 (訓練)2016年3月11日~12日のわたし
2016年03月10日 07:10
11日は、横浜みなとみらい地区にある「パシフィコ横浜会議センター」で開催される『世界地域情報化会議2016』で午後プレゼンテーションするために、姫路発午前6時の始発・のぞみ102号に乗車。新横浜経由で9時半に会場に入って午前のセッションを3Fのホールで受講中。11時頃、唸るような低い轟音が近づいてきたかと思ったら、突然突き上げるような大きな揺れがあり、すぐにさらに大きな横揺れが起こった。

来場者は一時パニック状態になったが、柱に寄り添うものや机の下に潜り込むものなど、地震への対応ができていて、照明と天井の一部が落ちてけが人は出たものの、300人の中で落命するものはなかった。1分ほど揺れは続き、また大きな余震に襲われたので、係員の指示で5分間くらい部屋でそのまま待機したが、その間にこの地震が首都直下型の「東京湾北部地震」で、M7.3の規模であることを知らせる緊急災害速報が流れてきた。

余震もとりあえず治まったようで、足下に気をつけながら部屋から出て大きな窓から外を見ると、海水で満たされていた湾内から、すべて水がなくなって、赤黒い海底が沖合まで露出していた。だれもが即座に「津波が来る!」と直感した。

係員の「上のフロアに避難してください!」という声で、全員が階段を4Fに駆け上がった。沖合に白い壁のような波頭が見え始めると、みるみるその壁は大きくなり陸地に接近してきた。「このフロアなら津波は大丈夫ですから心配しないで下さい」。動揺する参加者を安心させてくれる係員。日本語だけでなく、英語・中国語・韓国語でアナウンスしている。日頃からきちんと訓練されているんだと、救われたような気持ちになった。

約3mはあろうかという真っ黒な津波が、みるみる眼下の景色を飲み込んでいく。あっという間に、大都会の整備された街路は、水の下に沈んでしまった。しかし、ほんとうに怖いのは、そのあとのひき波だった。標識や車はもちろんのこと、瓦礫となった家屋や街路樹などを一気に沖合にさらっていく。中には、人と思われる姿も見えた。まさに地獄絵が目の前で広がっていたのである。

「津波は、第2波第3波により注意が必要です。このまま動かないで!」と指示を出す係員。会議メンバーだけでなく、他のコンベンションの参加者や観光客も加わり、600人近くに増えた避難者は、整然と彼に従った。おそらく、同じようなリーダーが束ねるグループが各所でできているのだろう。

約1時間も経過しただろうか、津波も治まって水位が元に戻ったところで、係員が1枚の地図を配り始めた。そこには災害避難のための地域防災拠点までのルート説明とQRコードが印刷されていた。スマホでQRコードを読み込むと、GPSと連動して案内してくれるという仕組み。それぞれチェックポイントでスマートポスターを読み込むと、安全な経路に補正してくれるというもの。このグループはJRの線路の先にある伊勢町の戸部小学校に向かうことになった。

パシフィコ横浜からランドマークタワーへ、そして桜木町駅前広場までは、地上10mの空中回廊になっている。周囲の悲惨な景色に目を背けながら、ひとことも喋ることなく、全員黙々と歩を進める。途中、東急東横線乗り入れのみなとみらい線の駅は、津波で完全に水没していた。動かない「動く歩道」を歩む足取りも、自然と重くつらいものになっていた。

JR桜木町駅は、瓦礫に埋まって完全に鉄道駅の体裁を留めておらず、折れ曲がり垂れ下がる線路とともに、2編成の電車がぐにゃぐにゃになって転がっている。とても現実とは思えない景色だ。きっと首都圏の鉄道は、まったく復旧の目処すらつかない状態だろう。横浜市だけで40万人を越える帰宅困難者が出ているという。すでに郊外に向けてたくさんの人が道路を歩いているが、危険な瓦礫の中を20キロ以上離れた自宅にたどり着くのは、きっと真夜中近くになるだろう。ただただ家族の無事を祈りたい。

桜木町駅北側から苦労しながら、紅葉坂をのぼり戸部町1丁目交差点までくると、周辺の様相が一変した。やや高台になっているおかげで、津波の被害は大きくなさそうだが、瀟洒な住宅や立派なビルがあちこちで壊れ、地震被害の大きさが見て取れる。また、見渡すとあちらこちらから黒い煙が立ち上っていて、多くの火災が発生しているようだ。一行は足を速めて、緊急車両が行き交う横浜駅根岸通りを身体を寄せ合うようにして避難所である戸部小に向かった。

ふだんなら20分強もあればたどり着く距離だが、この日は、障害物や歩行もできない状態になっている箇所があって、迂回しながら1時間ほどをかけてやっと目的地に到着した。戸部小学校は、避難してきた地域住民でごった返しており、市役所職員と社協のメンバーが主体となって、避難所機能の設置に奔走していた。わたしは阪神淡路大震災からなんどか避難所運営のお手伝いをした経験があったので、早速ボランティアとして体育館での作業のお手伝いをすることにした。

嬉しかったのは、会議に参加して被災した多くのメンバーが、一緒にボランティアに参加してくれたことだ。地域情報化の専門家ばかりなので、一気に情報発信の拠点機能が立ち上がった。従来の災害では、発災からしばらくの間は「情報空白域」と呼ばれる状況が発生するが、こと戸部小避難所ではブラックアウトは短時間で解消されたのである。外部の人間に引っ張られたのか、負傷していない地域住民もボランティアとして避難所運営に参加し、行政と住民が一体となった体制が瞬く間に整った。

自治会の点呼で、避難所に来ていない一人住まいの老人など要援護者の確認に、地元住民が走る。自宅で生き埋めになっているような場合には、何人もが駆けつけて掘り出して救助する。防災倉庫にある救助工具が、地域一丸のリレーで活躍した。また、重機が必要な被災者には、情報班が外部救援を依頼し、市民キャビネットの活動によって生還できた事例も多かった。公助が難しい段階で生死を分けるコミュニティの「共助」が見事に見える化されていた。

地震発生後5時間が過ぎると、避難所機能もほぼ揃って、さまざまな情報が入手できるようになってきた。在京キー局のテレビはほとんど役にたたず、頼りは地元の放送局やコミュニティFM、そして地元新聞社だった。社協は、入ってくる情報を模造紙に書き込んで、壁新聞を体育館の内壁を取り巻くように片っ端から張っていった。

そうしていると、アルファ米と缶詰の夕食が提供され始めた。まだ、ガスも電気も使えない中、備蓄していた飲料水を注いで作れる五目ご飯。昨夜から食事をしていなかったことを忘れるほど、大変な一日だったが、こんなに美味しいご飯を食べるのは初めてと思えるくらい、とにかく美味しかった。しばし、発電機のコンセントを借りて愛機のノートPCのバッテリーを充電してから、各地で備蓄されている物資を確認して、支援の要請をしてみることにした。


つづく。(追加を上書きします)

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(訓練)2016年3月11日~12日のわたし - 16/03/10 06:55 (こたつねこ)