山崎断層地震ひょこむ防災ネットの「震災の記憶-語り継ぐ」
「震災の記憶-語り継ぐ」の書込一覧です。
[ 返信表示 ] [ ツリー表示 ]
震災の記憶-語り継ぐ
【閲覧数】322
2009年01月10日 06:26
阪神淡路大震災にまつわるエピソードをお寄せ下さい。ただし実話&体験談に限ります..(^^)


書き込み数は4件です。 [前のページ] [次のページ]
[ 日付順 ] [ 投稿者順 ]
おのみちから、だい@D-LINE.netさん
【返信元】 震災の記憶-語り継ぐ
2009年01月14日 04:38
はじめまして。おとといくらいから「おのみっち」に参加させていただいてる、だいです。

僕も阪神大震災当時は大阪の高槻に住んでました。すごい揺れで目が覚めて、最初はたいしたことないと思っていたら、神戸方面がすごいことになっていて…
今思い出しても、ちょっと怖いです。

当時、会社にはe-mailはあったんですが、家庭にはインターネットがない時代。
当日は会社に行けなくて(ダイアルアップは電話が麻痺していたため接続できず)、翌日言ってみると、広島の大学に通っていた友人(E-Mail)や呉に住んでた友人(パソコン通信経由)から、それぞれ安否確認のメールが届いてて、さっそく無事の連絡をしました。
友人たちとやりとりするためのメーリングリストを作っていて、そこに流れたメールなので、今でも残っています。
読み返してみると、関西にいた友人たちの無事を確認したり、近隣地区の状況を会社の人に聞いて広島の友人にメールしたり、NTTさんがインターネットで公開していた死亡者リストをとりよせて、友人・知人の名前がないかを調べたりして、地震直後から、いろいろと友人たちとメールで情報交換をしていたようです。

電話はなかなか復旧せず、メールが使えない会社の友人たちの安否確認できるまで2~3日以上かかったのを考えると、かなりネットの有効性を実感してはいたのですが、こたつねこさんのように、そこから何かの活動につなげるようなことはできませんでした。(当時は入社2年目のペーペーで、まだまだ仕事は与えられるもののほうが多かったし)

1月17日は、大阪の自宅から防災訓練に参加させていただきたいと思います。
(たぶん早朝だけになると思いますが…)

地震の朝
【返信元】 震災の記憶-語り継ぐ
2009年01月13日 16:25
地鳴りが迫ってきて「父さんコレ何?」「ゆれるぞ」同時位に結構ゆれた おさまったので布団に潜り込んだ

電話が鳴る「こんな朝早ように往診かぁ?」と電話に出たら切れていた ツーーツーーツーー
「往診やったらまた掛かってくるやろ」6時になっていたので地震情報確認のためにテレビをつけた
子供を見に行ったが 姉ちゃんは怖がっていたが 妹のほうはすやすやで 安心する

テレビでは神戸以外は震度が出てくるのに神戸は出ない
おかしいなと思って 実家に電話を入れた
父「ごっつう揺れたわ 2階がめちゃくちゃや 妹に連絡が取れへんのや」
私「ウチは大丈夫やった 妹にはこっちからも電話してみるわ」

慌てて嫁の実家に電話 呼び出し音はなるのだが一向に出る気配がない どないなってンねやろ 気が気でない

義妹から電話で「家が壊れて 親が2人とも閉じ込められた」との一報 嫁は直ぐに行くと言い出したが 神戸は壊滅状態で動きようがないとのこと
なんとかなだめすかして 連絡を待つことに

義父は2階で寝ており なんとか自力で這い出したという連絡
義母は1階で寝ておりまだ埋まったままとのこと それでもしばらくして大きな怪我もなく助け出されたという連絡がはいり一安心

連絡が取れないという人が多かった中 義妹は緑の公衆電話を見つけるたびに連絡を入れてくれていたようだった

気になりつつも丸2日辛抱して 道路状況などを確認
水とカセットコンロとカップめんなどを持って 北神急行で谷上から新神戸に入り 実家にたどり着いたのはの昼頃だった

義母が埋まっていたところを確認してゾーーとした
枕の10cmくらいのところに冷蔵庫が倒れ そのうえに梁が乗った隙間で助かったようで 冷蔵庫のこけ方が悪かったらと思うと。。。。

実際に神戸で震災にあったわけではないが 子供の頃遊んでいた風景がまったく変わっており 何に手をつけていいかもわからず 両親兄弟の無事と神戸に入る手段を確認しただけの陣中見舞いで終った事に悔いが残っている私です


【語り継ぐ】-おにぎりボランティア最期の日
【返信元】 震災の記憶-語り継ぐ
2009年01月10日 08:07
妻は4時半、息子達は5時半起床の毎日が2週間続いた。3~4日したあたりが早くも中だるみ現象が発生したり、順風満帆な「おにぎりボランティア」ではなかったが、終了日が事務局から知らされると、また一家の心はひとつになりラスト3日間は握るピッチもモチベーションも十分すぎるほど上がっていた。

最終日前日は土曜で学校も会社も休みだったように記憶している。平日より少し時間も余裕のある中で、息子達がなにやらひそひそと相談していた。
「お父さん、おにぎりと一緒にトラックで避難所にいけないなら、おにぎりにお手紙をつけてもいい?」
自分たちの気持ちをおにぎりを手にする被災者の人にどうしても伝えたいらしい。なんと素晴らしい発想だろう。我が子にあんなに感動した経験はその後も含めてまだない。すぐに事務局に確認して「問題ない」という回答を知らせると、ふたりは小躍りして喜んだ。昔はええやつやったんや(笑)。

おにぎりはひとつずつラップに包んで丈の低いボックスに入れて事務局に運ぶ。トラックに積み込む際には、別の箱に詰め替えるのだが、ここであまり邪魔にならないようにしなくてはならない。息子達と相談して短冊を1/4にしたくらいの大きさのカードに、それぞれ自筆で思いを書いて、じゃまにならないようにおにぎりにセロテープで貼り付けることにした。

制作は前日の夜。妻が作ったカードを真ん中にふたりならんでコメントを記入する。「頑張って下さい」「元気をだしてね」「美味しいですか?」など、短い言葉を幼い文字で一枚ずつ仕上げていく。予定よりも時間をかけて、でもしっかり自分たちでやりきった。翌日は、手書きのカードを一枚ずつ確認しながらおにぎりに貼り付けた。最後のおにぎり輸送に向かう父の車を玄関で手を振り見送る家族の背中には、きっとオーラが輝いていたに違いない。あの輝きは今はどこにいったのかな~(笑)。

【語り継ぐ】一家総出のボランティア
【返信元】 震災の記憶-語り継ぐ
2009年01月10日 06:52
阪神淡路大震災が起こったとき、長男は10歳、次男が6歳。ボランティアなど経験させたことはなかった。妻も障害を持つ友人がいたので、たまに介助のまねごとをするくらいで、我が家は社会奉仕活動には人並み以上に疎い家庭だったと言える。

そんな中、(社)姫路青年会議所では1月19日から毎朝、組織的に「おにぎり」を避難所に差し入れることとなった。メンバーが事務局のある商工会議所に持ち込んで、目的地別にトラック数台で寸断された道路を縫いながら被災地に向かう。

締め切りの朝7時までに「おにぎり」を届けるには、頑張って早起きしなくてはならない。おまけに小家族なので炊飯器が小さく、二回お米を炊かなくてはならず妻は5時前には起床して台所に立つことになった。我が家の家族は朝に弱い。普通ではなく相当に弱い。震災前も震災後も、起床の号令をかけるのは父親の仕事。でも一発で起きた試しがない(笑)。その家族が、あの時だけは自分たちで頑張ってやり遂げた。

一家総出のボランティアは、早朝作業の中でいろんな話しをしながら毎朝続いた。眠い目をこすり、小さな手を真っ赤にしながら、一所懸命にペアでおにぎりを作る息子たち。「このおにぎり、どんな人が食べてくれるのかな~」「美味しいって喜んでもらえるかな?」「おにぎりと一緒に励ましにいきたいな~」。自分の家とはとても思えない、素晴らしい家族の会話がそこにあった。

[前のページ] [次のページ]