日曜日の午後に自宅から1時間ちょっとのところにあるホテルを見に行った。 このホテルは夫が購読している工業会の雑誌に紹介されていて、正真正銘の田舎にあるのと、基本は木造建築で白木っぽいベランダがあるなど、夫の好きなタイプだというので、そのうち下見に行こうと話していたのだった。 ホテルは同じシュヴァルツヴァルト(黒い森)地方にあるのだが、黒い森といっても広域にわたるので、思ったより時間がかかった。 3時半ごろホテルにつくと、道路に面した側には高級感はなく、むしろ庶民的な宿という印象だったが、その周囲に停まっている夥しい車を見て驚いた。 三分の一ほどはホテルから遠くない同じ郡内の人達、残りはスイス人だったからだ。 そういえばここはシュヴァルツヴァルトの南部だから、スイス国境まで1時間かからない。 チューリッヒ、バーゼル、ベルン、トゥルガオなど、スイス北部からの客が多い。 地理的な利に加えて、ユーロはスイス・フランに対してかなり安くなっているので、スイス人はドイツで格安の休暇を過ごすことができる。 受付は小さくてちょうど数人がチェックインしており、その横を通って奥に進むと、こぎれいなレストランでケーキのビュッフェをやっていた。 満員ではなかったので、そこへ来合わせたウェイトレスが「何かお探しで」と訊くのに答えて、ここでコーヒーを飲めますかと尋ねた。 「いえ、ビュッフェはホテル宿泊客だけなんです」とのことで、あら、残念というと、「コーヒーなら、すぐ向うの方にベーレン(熊)というカフェがあります」と教えてくれた。 この時点で夫はかなり不機嫌になった。断られると、プライドがあるのかそれ以上は何も言わないが、いつもふくれっ面をする。困ったものだ。 相手には相手の事情があり、例えばこのケーキ・ビュッフェなどは外から来た大食いのオッサンや若者に荒らされるのがいやなので、宿泊客に限定しているのだろう。 ま、いいや、とそのベーレンに行くことにした。ホテルのすぐそばで簡単に見つかったが、何だか安宿という印象で、「ここでいいのかい?」と夫は不安げだ。 とにかく中に入ってみましょうよ、とドアを開けて、私は思わず笑ってしまった。 一言でいうと、えらく趣味が悪い。安っぽいシャンデリアみたいなランプがあちこちに置かれ、飾られている花はケシやデルフィニウムなど全て造花でけばけばしい。 しかし見るところが私と違う夫は、ここの床や天井の作りは立派なものだと言った。 私の住む辺りもそうだがこの地区も製材業が盛んで、村に入ってから木造建築専門の会社を数軒見かけた。それから暖炉造りの会社もある。こういう伝統産業が夫は好きなのだ。 ベーレンはカフェ兼レストランで、時間帯もあり、隅っこのテーブルに近所の人らしい若者が4、5人座っているだけだ。 飲み物を準備するカウンターの向こうで、60代半ばに見える男性が、何でしょうか、と尋ねる。 何でしょうかって、この時間ならお茶しに来たに決まってるでしょ。 夫が「コーヒーは飲めるかな」と訊くと、ええ、どうぞ、と言って、おもむろに私たちが腰を下ろしたテーブルにやってきた。 愛想はないが、どことなく愛嬌がある。まじめなんだけどそれが滑稽というタイプだ。 カプチーノとラッテを注文し、私がケーキはあるかと尋ねたら、「いや、今日はケーキはもうないです。チーズとリンゴならあるけど」と言う。 私は???となり、チーズは分かるけどリンゴは生、それとも調理してあるの?と質問した。 オジサンは「んもう!」という表情をして、英語なら分かるかい、と英語で訊く。 夫が苦笑して「アップルケーキとチーズケーキならあるって言ってるんだよ」とフォロー。 私は少しムッとして「これドイツ語・英語の問題じゃなくて、あんたがさっきケーキはないって言ったからよ」と言い返した。 なぜリンゴにこだわったかというと、その前の日曜日、続けて二回私が自己流の焼き林檎を作ってそれが大好評だったためだ。(評する人間は約一名だが。) 焼き林檎は、真ん中をくりぬいてそこにナツメヤシを詰め、ブランデーと砂糖をかけてオーブンで丸焼きにする方法もある。それにアイスクリームを添える。 私はそれがあまり好きでなく、でも買いすぎたリンゴを何とか使わねばと思い、輪切りにしてバター(この場合は塩入)で焼いて、戻したレーズンと砂糖を乗せてからラム酒を注いだ。 焼きリンゴのレシピはともかく、彼が持ってきたアップルケーキはなかなかいける味だ。 チーズケーキを注文した夫も、うん、おいしい、という。 アップルケーキが日本の2倍半くらいの大きさなので、半分を夫に差し出すと、こっちの方がうまいかも、と言い、ケーキが増えたのでまたカプチーノを注文した。 勘定を支払う時「おいしかったわ」と私が言うと、「それはよかった、いろいろ作ったけど残っているのはリンゴとチーズだけでね」と数個のケーキが並んでいるカウンターを指す。 あれ、明日でも食べられますよね、と私は尋ね、夫に「あなたが明日出張に発つ前に食べればいいわ」と言ったが、後半の部分は聞き取れなかったのか、ウェイターの小父さんは「それが明日は休業日なんです」と残念そうだ。 夫が「いや、持ち帰りたいって言ってるんだよ」というと、小父さんはサッと嬉しそうな顔になり「それはいい、でないと今日の夜捨てることになるから。それでいくつ?」と訊くので私は二つを注文した。 ウェイターさんはすぐに箱に入れたケーキをもってきて、3個入ってるけど2個の代金でいい、と言う。5ユーロ、約6百円だ。ちょうどよかった、夫に同行するB氏にもあげよう。 そのレストラン・カフェにはもう一つ特徴があって、壁にずらりと陶器の皿が並んでいる。 ドイツ製らしいものもあるが、マヨルカやポルトガルの焼きものもあり、エイラートとかエルサレムと書いた皿も。 すごいコレクションだ。小父さんは自慢そうに「オーナーが旅行で買ってきたものでね。オランダのもあるよ」と言うので、私が奥の方の青と白の皿を指さして「デルフト」でしょ、と訊くと、そうそう、とまた嬉しそうな顔をした。 それから夫としばらくこの地域の産業の話なんかして、「夏はもっときれいなところなんだよ」と再訪を促す風だった。 どこにでもいる人間たちの、どうということもないおしゃべりだけど、こういう時間こそが私にとっては貴重なのだ。 今風に言うと「心が癒される」のかもしれないが、私は別に心を病んでいるわけではないので癒されるという表現はしないものの、普通に暮らしていることがしみじみと嬉しく思われるひとときだった。 写真は日曜日のシュヴァルツヴァルトの風景 |