「元気交流中播磨部会・歴史と文化グル-プ」の活動と歩み新着トピック - ひょこむ
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「元気交流中播磨部会・歴史と文化グル-プ」の活動と歩み新着トピック - ひょこむ
ja
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2024-03-28T21:34:12+09:00
2024-03-28T21:34:12+09:00
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コミュニティを外部公開[承認制]に変更しました
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=164188&bbs_id=1355&res#1466676186
2016-06-23T19:03:06+09:00
こたつねこ
本日の中播磨地域ビジョン元気交流(歴史・文化・未来)部会での検討の結果、第7期「元気交流中播磨部会・歴史と文化グル-プ」の活動と歩みコミュニティを外部公開としました。
今後、このコミュニティを使って、部会の活動を順次情報発信・共有していく予定です。
今後、このコミュニティを使って、部会の活動を順次情報発信・共有していく予定です。]]>
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⑩小寺大明神
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163749&bbs_id=1355&res#1464914765
御国野地区
2016-06-03T09:46:05+09:00
こたつねこ
御着城の本丸跡に位置している。小寺大明神は、宝暦5年(1755年)の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」に「今此所に小寺殿社あり」と注記されており社には三代城主、小寺政職・小寺則職・小寺政職をお祀りしている。
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⑨御着城本丸
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163748&bbs_id=1355&res#1464914644
御国野地区
2016-06-03T09:44:04+09:00
こたつねこ
茶臼山城・天川城とも言う.永正16年(1519年)姫路城主小寺政隆(まさたか)が1月築城して、ここに移り本拠とした.
東と北は四重の濠をめぐらし、西と南は二重の濠で天川を外濠に利用し、茶臼山という約5mの丘上に本丸、(南北214m、東西227m)二の丸、(―辺約110m)を設け外敵に備え、北方の斉藤山頂(深志野)に見張り所を置いた.
城郭内に、家中屋敷、町屋を包含して、天川の西に馬場・天川の南に的場を作り、家臣の武芸訓練に当てた。
御着公会堂の東道路に、城下町特有の戦略上鍵形に曲げた遺構があり...
東と北は四重の濠をめぐらし、西と南は二重の濠で天川を外濠に利用し、茶臼山という約5mの丘上に本丸、(南北214m、東西227m)二の丸、(―辺約110m)を設け外敵に備え、北方の斉藤山頂(深志野)に見張り所を置いた.
城郭内に、家中屋敷、町屋を包含して、天川の西に馬場・天川の南に的場を作り、家臣の武芸訓練に当てた。
御着公会堂の東道路に、城下町特有の戦略上鍵形に曲げた遺構があり城内には数箇所の井戸があって大掛かりな城砦兼居館の形の平城でした。城主三代60年間続いたが、羽柴秀吉の軍勢に天正7年(1579年)に開城(落城)した。 ]]>
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⑧黒田家廟所
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163747&bbs_id=1355&res#1464914542
御国野地区
2016-06-03T09:42:22+09:00
こたつねこ
黒田官兵衛孝高の祖父(黒田重隆)と生母明石氏(いわ)の二人を祀ってある。
黒田家は御着城主小寺家の家老となり、重隆の時から姫路城を守って姫路城主となった。
左の五輪塔が(孝高の祖父)重職公、右の五輪等が重職公夫人明石氏(孝高の母)の奥津城である。元は、隣村佐土、心光寺に祀ってあったが、大水のため流され不明
であった。黒田宮兵衛孝高の命で捜していたところ、骨壷が御着の大庄屋(天川久兵衛)屋敷から見つかりそれ以来この地にお祀りしている。
享和2年(1802年)に資材を九州から運んできて造られた。周...
黒田家は御着城主小寺家の家老となり、重隆の時から姫路城を守って姫路城主となった。
左の五輪塔が(孝高の祖父)重職公、右の五輪等が重職公夫人明石氏(孝高の母)の奥津城である。元は、隣村佐土、心光寺に祀ってあったが、大水のため流され不明
であった。黒田宮兵衛孝高の命で捜していたところ、骨壷が御着の大庄屋(天川久兵衛)屋敷から見つかりそれ以来この地にお祀りしている。
享和2年(1802年)に資材を九州から運んできて造られた。周りの石塀は龍山石が使われており、昭和56年に姫路市指定史跡になっている。
天正8年(1580年)秀吉の播磨平定の時、孝高は姫路城を秀吉に譲り、職隆と国府山城(妻鹿)に移りました。御着・妻鹿も筑前さんと呼ばれている。]]>
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⑦黒田官兵衛孝高ゆかりの目薬の木
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163746&bbs_id=1355&res#1464914412
御国野地区
2016-06-03T09:40:12+09:00
こたつねこ
信長・秀吉・家康に仕えた戦国の智将・黒田官兵衛孝高(1546年~1604年)は、姫路城で生まれ、40年近くをこの播磨の地で過ごした。
司馬遼太郎の「播磨灘物語」には、官兵衛孝高の祖父・黒田重隆が、廣峯神社(姫路市街を眼下に一望できる廣峯山にある)で暮らしたとき、「目薬の木」で目薬(玲珠膏)を作って売り財を成したと記録されている。
司馬遼太郎の「播磨灘物語」には、官兵衛孝高の祖父・黒田重隆が、廣峯神社(姫路市街を眼下に一望できる廣峯山にある)で暮らしたとき、「目薬の木」で目薬(玲珠膏)を作って売り財を成したと記録されている。]]>
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⑥黒田官兵衛孝高顕彰碑
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163745&bbs_id=1355&res#1464914280
御国野地区
2016-06-03T09:38:00+09:00
こたつねこ
黒田家は、「寛政重修諸家譜」などによれば、近江国伊香載(現・滋賀県長浜市木之本町)の出身とされ、黒田重隆の代に播磨に入り、御着城主・小寺政職に仕えた。
明応4年(1495年)に小寺氏は御着納所で段餞を徴収しており、15世紀末にはこの地域を拠点としていた。幼少(萬吉)の頃、父職隆と一緒によくこの地に来ていた。16歳の時、城主小寺鼓樋に嘱望され、禄八十石を賜り、近習として御着城に出仕した。
黒田官兵衛孝高は、羽柴秀吉の播磨侵攻、中国攻め四国、九州征伐など軍師として活躍し、天正15年(1587年)に中津城...
明応4年(1495年)に小寺氏は御着納所で段餞を徴収しており、15世紀末にはこの地域を拠点としていた。幼少(萬吉)の頃、父職隆と一緒によくこの地に来ていた。16歳の時、城主小寺鼓樋に嘱望され、禄八十石を賜り、近習として御着城に出仕した。
黒田官兵衛孝高は、羽柴秀吉の播磨侵攻、中国攻め四国、九州征伐など軍師として活躍し、天正15年(1587年)に中津城(現・大分県中津市)を与えられた。]]>
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⑤御着城ニノ丸跡
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163744&bbs_id=1355&res#1464914145
御国野地区
2016-06-03T09:35:45+09:00
こたつねこ
嘉吉年間(1441年~1444年)すでに構居が設けられ明応年間(1492年~1501年)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能をもう城郭としで機能していた。
昭和52年~54年の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに大・中型の濠や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われた。御着城跡からニノ丸跡から土器・陶磁器・木製品・瓦石製品等の遺物も検出された。遺物については姫路市埋蔵文化財センターに(南約1.5km)保存されている。
昭和52年~54年の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに大・中型の濠や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われた。御着城跡からニノ丸跡から土器・陶磁器・木製品・瓦石製品等の遺物も検出された。遺物については姫路市埋蔵文化財センターに(南約1.5km)保存されている。]]>
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④播磨国分寺
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163743&bbs_id=1355&res#1464913984
御国野地区
2016-06-03T09:33:04+09:00
こたつねこ
天平13年(741年)に聖武天皇が詔を出されてこの地に国分寺が創建され、その寺域は略々方二町(一辺約200m)で壮麗な規模であったと思われる。
その後、度々の兵火等で焼失。播磨国分寺跡は、現在国指定史跡として保存され1200年前をしのぶことのできる数少ない遺跡の一つである。
南大門とそれに連なる築地塀、中門と回廊が発掘調査され、‥南大門、中門、金堂、講堂が中心線上に並んでいる。
境内には、室町時代に創建された宝簑印塔をはじめ五智如来石仏がある。
その後、度々の兵火等で焼失。播磨国分寺跡は、現在国指定史跡として保存され1200年前をしのぶことのできる数少ない遺跡の一つである。
南大門とそれに連なる築地塀、中門と回廊が発掘調査され、‥南大門、中門、金堂、講堂が中心線上に並んでいる。
境内には、室町時代に創建された宝簑印塔をはじめ五智如来石仏がある。]]>
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③延命寺と板碑
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163742&bbs_id=1355&res#1464913836
御国野地区
2016-06-03T09:30:36+09:00
こたつねこ
当寺は天台宗に属し、円仁慈覚大師自ら本尊阿弥陀如来像を刻み、建立された寺で、往古は延暦寺の別院と称した巨刹であったが天正の兵火で悉く焼失した。
その後衰微していたが宝暦8年(1758年)に本堂を再建され隆盛を取り戻した。
明治18年8月9日、明治天皇山陽道御巡幸の際、当山に玉駕籠を停めさせ給いし故、御着御小休所として史跡に指定された。本堂の西北隅に、板碑があって上部に梵字が刻まれており、左に貞和元年(1345年)建立される。酉年仏らしい文字がかすかに見える。
その後衰微していたが宝暦8年(1758年)に本堂を再建され隆盛を取り戻した。
明治18年8月9日、明治天皇山陽道御巡幸の際、当山に玉駕籠を停めさせ給いし故、御着御小休所として史跡に指定された。本堂の西北隅に、板碑があって上部に梵字が刻まれており、左に貞和元年(1345年)建立される。酉年仏らしい文字がかすかに見える。]]>
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②御着宿・本陣跡
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163741&bbs_id=1355&res#1464913732
御国野地区
2016-06-03T09:28:52+09:00
こたつねこ
御着は姫路一加古川の「簡の宿」。本陣の敷地は約2,100坪、 本屋の部屋数30室、そのうち、畳敷きが26室で畳数175畳、建坪130坪の平屋建ての本陣があり、部屋の名前は鳥の名前がつけられていた。
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①御着のいわれ
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163740&bbs_id=1355&res#1464913543
御国野地区
2016-06-03T09:25:43+09:00
こたつねこ
神功皇后の時代、海岸線は今よりずっと北にあり、皇后が外征の途次、この地に上陸、お立ち寄り遊ばされたので、「御着」と言い慣わしたといわれている。
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⑦レンガ建築(浅田化学工業(株)
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163739&bbs_id=1355&res#1464913222
手柄・飾磨地区
2016-06-03T09:20:22+09:00
こたつねこ
地震のない欧米では、古代エジプト、ギリシア、ローマの時代から、煉瓦は構造材として使われてきた。日本の煉瓦建築は、明治初期のお雇い外国人建築家の手によるものが少なくないが、その多くは、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で失われた。それ以降、構造材ではなく装飾材として用いるようになった。
生野では、明治初期の鉱山建築のうち、器械所や作業場・倉庫・事務所などで煉瓦が使われた。
明治4年12月から明治6年2月までの1年余り、煉瓦積職人のアルホンスーパリスが雇われた。馬車道の終点にあたる飾磨...
生野では、明治初期の鉱山建築のうち、器械所や作業場・倉庫・事務所などで煉瓦が使われた。
明治4年12月から明治6年2月までの1年余り、煉瓦積職人のアルホンスーパリスが雇われた。馬車道の終点にあたる飾磨津の物揚場倉庫(現・浅田化学工業)の壁の一部が残っている。使われ煉瓦は約70万枚。生野やその近郊で焼かれたもの。パリスは生野滞在中に、日本の左官職人に煉瓦積みの技術を伝達したようだ。積み方は、イギリス積み、フランス積み、オランダ積みのほか、長手積み、小口積みなどがある。組み合わせの違いによる。飾磨港物揚場の壁は、長手面と小目面が交互に並んでいるイギリス積みが取り入れられている。
当時の煉瓦建築物は、現在ではほとんど見られない。旧生野支庁(現三菱マテリアル)と旧飾磨津物揚場(現浅田化学工業)の一部に、かつての面影をわずかにとどめている。煉瓦は、パリスらの指導によって鉱山に近い竹原野や森垣村(生野町)で焼かれたといわれている。
(生野銀山と銀の馬車道・清原幹雄著 発行所、神戸新聞総合出版センタ-頁54・92から引用)
「鍍石(カラミ)」
銀を含んだ鉱石が掘り出されると、それを買吹と呼ばれる精錬業者が作業を進める。
まず素吹「床」を設け、幅1尺2.3寸、深さ1尺ほどの湯壺を掘り、炭火を入れる。の上に小さく砕いた鉱石を置く。二挺の輔で強く吹くと、含まれていた鉱物が溶け出す。
火の上には「皮」ができる。皮とは、銀などの金属を分離したあとの鉱滓(スラグ)のことで、「鍍(カラミ)」とも呼ばれる。溶岩が固まったような状態のものである。
明治以降になると、四角い形に固めたものが飯山町の寺院や住宅の石垣として、また、飾磨津(姫路市飾磨港)の改良工事にも使われた。
生野銀山と銀の馬車道・清原幹雄著、
(発行所、神戸新聞総合出版センタ-頁68~69から引用)]]>
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⑥生矢神社(手柄)
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163738&bbs_id=1355&res#1464913064
手柄・飾磨地区
2016-06-03T09:17:44+09:00
こたつねこ
主祭神は大己貴命(大国主命)。飯田、亀山、手柄、栗山の氏神。神功皇后の三韓出師の際、麻生山から放った三本の矢の一つが落ちたところ。平清盛が厳島への往還の際、霊夢に感じ、「生屋大明神」の神号を奉る。清盛十六世の孫・関永垂が飯田に住み、大庄屋となり寛永九年(1632)に社殿を再建した。元禄六年(1693)の棟札が残る。
・姫路市教育委員会発行の「文化財をたずねて」を参考にして作成した
・姫路市教育委員会発行の「文化財をたずねて」を参考にして作成した]]>
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⑤三和寺(さんないじ)(手柄)
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163737&bbs_id=1355&res#1464912856
手柄・飾磨地区
2016-06-03T09:14:16+09:00
こたつねこ
臨済宗妙心寺派。薬師堂の本尊薬師如来と十一面観音は恵心僧都源信作と伝わる。作風からは鎌倉後期の作か。延宝の頃、網干門寺の盤珪和尚(ばんけい)の高弟柤什の再興。
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④亀山本徳寺(亀山)
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163736&bbs_id=1355&res#1464912704
手柄・飾磨地区
2016-06-03T09:11:44+09:00
こたつねこ
蓮如上人開基。明応2年(1493)本徳寺と称す。天正8年(1580)の羽柴秀吉による英賀攻略の後秀吉から三百石の寄進(寺領宛行)を得て、同10年に、英賀から亀山に移転。
県指定
本 堂 西本願寺の北集会所であった建物。一時、新撰組の屯所として使われ、柱に隊士による刀傷あり。
大広間 書院造り。17世紀前半の建立。
経 堂 唐様。中央に、八角輪蔵を置く。亨保11年(1716)の建立。
庫 裡 切妻造り、妻入り。延享四年(1747)建立。
大 門 飾磨街道に向かって東向きに建つ。1間2戸4脚門。切妻造本瓦葺き。宝永六年...
県指定
本 堂 西本願寺の北集会所であった建物。一時、新撰組の屯所として使われ、柱に隊士による刀傷あり。
大広間 書院造り。17世紀前半の建立。
経 堂 唐様。中央に、八角輪蔵を置く。亨保11年(1716)の建立。
庫 裡 切妻造り、妻入り。延享四年(1747)建立。
大 門 飾磨街道に向かって東向きに建つ。1間2戸4脚門。切妻造本瓦葺き。宝永六年(1709)の建立。平成12年に大修理。
市指定
梵 鐘 永禄九年(1566)、飾西郡仮屋村の三木宗大夫入道慶栄が母の十七回忌にあたり、英賀本徳寺の常住鐘として寄進したもの。作者は芥田氏を中興し、播磨国鋳物師惣管職にあった野里の芥田五郎右衛門家久。
鸞聖人
絵 伝 絹本著色(けんぽんちゃくしょく)。四幅。永正元年1504)、萸賀本徳寺の常什物として、本願寺九世実如上人より下付されたもの。]]>
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③法専坊(東延末)
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163735&bbs_id=1355&res#1464912587
手柄・飾磨地区
2016-06-03T09:09:47+09:00
こたつねこ
蓮如上人の意を承け英賀に本徳寺を創建した下間空善の隠居寺。播磨6坊の1つで境内に「本州以西浄土真宗開教霊場」の碑文あり。明治6年、手柄小学校の前身、「飾術学校」が置かれた。
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②大年神社(東延末)
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163734&bbs_id=1355&res#1464912006
手柄・飾磨地区
2016-06-03T09:00:06+09:00
こたつねこ
延末三町の鎮守社。祭神は大年大神、君田大神他。延末村の豪農三輪嘉右衛門により、現在地に移転。境内に手柄村第九代村長・田中泰造翁(明治44~昭和11年在職)の頌徳碑がある。
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①冑山神社(西延末)
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163733&bbs_id=1355&res#1464911877
手柄・飾磨地区
2016-06-03T08:57:57+09:00
こたつねこ
祭神は天照大神他。元禄14年(1701)9月、姫路城主本多政武(忠国)が、姫路城の裏鬼門を守るため、社領八石を寄進して創建。元禄十四年銘の水盤あり。冑山は、『播磨國風土記』の冑丘」にあたる。
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現地研修
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163732&bbs_id=1355&res#1464911026
2016-06-03T08:43:46+09:00
こたつねこ
委員会では、「現地研修」として、銀の馬車道沿線の地域に赴き、関連の歴史的遺産や史跡を取材、記録に残す作業を行いました。
各地域別に地図上に整理された資料が、コミュニティマップにまとめられていますのでご参照下さい。
http://hyocom.jp/community/comm_map.php?bbs_id=1355
各地域別に地図上に整理された資料が、コミュニティマップにまとめられていますのでご参照下さい。
http://hyocom.jp/community/comm_map.php?bbs_id=1355]]>
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編集後記
https://hyocom.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=163731&bbs_id=1355&res#1464910802
2016-06-03T08:40:02+09:00
こたつねこ
ようやく「第7期中播磨ビジョン委員会、歴史と文化グル-プ」の活動報告書ができあがった。第7期生の第1回の会合があったときに、赤松部会長の発案でスタートした。
※活動の記録を残そう・成功もあれば失敗もある。自分たちだけ
のものでない。繋いでつないでバトンして活かしてもらおう※
全く同感だった。ビジョン委員の活動は今期で7期、15年間の歴史がある。
活動したこと、考えたこと、思ったことを記録する。記録して始めて、残され活かされる。
今までに何をして、どう失敗(成功)してきたか、特に負の遺産のストック...
※活動の記録を残そう・成功もあれば失敗もある。自分たちだけ
のものでない。繋いでつないでバトンして活かしてもらおう※
全く同感だった。ビジョン委員の活動は今期で7期、15年間の歴史がある。
活動したこと、考えたこと、思ったことを記録する。記録して始めて、残され活かされる。
今までに何をして、どう失敗(成功)してきたか、特に負の遺産のストックは、来期以降の委員会の財産であると考え、「よかった、良かった」でなく自らに厳しく辛い表現も逃げずに織り込んだつもりである。
ただ評価は、言葉とか取り上げ方一つで、前期の業績とか担当部門(者)の単なる批判となりかねない。それこそ「負の遺産」となる。
記録という名の下に、この7期までつなぎ繋いできた「ビジョン委員会の業績」、そして2年間共に汗をかいた仲間を批判するに終わる愚だけはしたくない。
「負の遺産」が「未来につながる、財産となる」ことを希求し2年間の活動を踏まえた前向きの案を委員会で議論し「評価と提案」という項目を設け報告書に書きとどめた。
この冊子は「2年間の活動で得たこと思ったことを今後の活動に少しでも活かしてほしい」と7期生全員の想いを込めて記述し編纂しこの報告書にまとめたものである。
「自ら考え行動する地域づくり」の輪がつなぎ繋がることに役立ちたいとの願いを込めてお届けしたい。
最後になりましたが編集にあたり協力いただきました皆々様、特に赤松部会長、事務局の廣瀬様に大変お世話になり、心から御礼を申し上げたい。
編集 福永 強]]>