書き込み数は2件です。 | ◀▶ |
今の三木町の町割は、織田・豊臣時代の城下町に直接の起源があると思うのだが、その後の在郷町時代の改変もあるみたいで、非常に複雑なものを感じた。このあたりのことを調べてみても面白いと思う。 三木城本丸、新城は、切岸が残っている程度。微地形から感じるしかない。 すごかったのが、鷹尾山城。物凄く高い土塁(城内からでも3m近くある)が、織田勢の造った付城側に対して残っている。 雲龍寺には、部分的に土塁が残っていた。雲龍寺を三木城南構に比定する説もある(宮田逸民「近頃の「三木合戦」事情」『三木史談』46号)。 |
・這田村法界寺山ノ上付城 四方を土塁で囲まれた主郭と副郭。駐屯部と思われる北側山麓まで続く階段状の削平地。陣城の典型的な在り方かと思う。しかし、道はあるものの、蜘蛛の巣だらけの道で辟易する。城跡もかなりの藪。 ・高木大塚城 土塁は低いものの折れのある土塁を持つ。四方に突起状の土塁が張り出している。この陣城だけ、かなり異質な印象を受ける。 ・シクノ谷峯構付城 明石道峯構付城 小林八幡神社付城 この三城は同一プランの付城。発掘調査報告書によると、天正7年4月頃、織田信忠が前田利家など越前の大名衆に造らせたらしい。小林八幡神社付城 … [続きを読む] |
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