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2009年10月22日(木) 
福岡さんから写真三葉の提供がありましたので該当箇所にはめ込みました。また赤字部はカブキが書き込みました。

ガルデルの足跡-1 (後半:悲劇の顛末)

翌日24日正午ごろ、ガルデル達は再びテチョ飛行場に向う、今度は米国人スタンレイ・ヘビーの操縦によるSACO便F-31機でメデジンへ向う(何故か直接カリに行なかったか謎?)。 メデジン・プラジャ飛行場には午後2時45分ごろに到着。
 (テチョ飛行場にて別れ)旅がダイエット効果を?

給油作業中ガルデル達は空港内バーで休養を取り、再び機上の人となり、エルネスト・サンペール操縦のF-31機は滑走路を南から北に向かい滑走行を開始するが、500mくらいの場所で離陸し急旋回して、出発待機していたSCADTA“マニサーレス“号の機上に墜落し、両機共炎上してしまう悲劇的事故になる。 時は1935年6月24日午後3時07分。 SCADTA便の乗員はハンス・トンム・パイロットを始め全員7名死亡。 
SACO便の13人乗員の内、ガルデル、レ・ペラ、バルビエリ、コルパ、スチワルッ、パラシオ、サンペール(操縦士)、フォスター(副操縦士)らは即死。 独自で脱出した5人のうち、アザフは25日に、リベロールは26日に死亡する。 さて、この事故現場のオラージャ・エレーラ飛行場の滑走路から降乗客待合所にはいる入り口に彼らを追悼した記念プレートがある。 プレートには『永遠の声、追悼!カルロス・ガルデル』とあり、レ・ペラ、バルビエリ、リベロール、らの名も刻まれている。 また、1948年6月24日にリベルター・ラマルケ、ミネルバ夫妻が訪れて、追悼プレートを捧げている

メデジン、オラージャ・エレーラ飛行場の追悼記念プレート

ガルデルの遺体は一時的にサン・ペドロ墓地に埋葬され、慕碑墓が祀られてある。 1995年6月24日に60年追悼記念プレートが捧げれた。 噂によるとガルデルの遺体は未だにここの墓地に安置されているとか。 何故かと言うとアルマンド・ディフーノが送った遺体はニュー・ヨークに行き、そこで御通夜葬式が行われているが。 其の時にガルデルの遺体を拝んだ人達(共演した俳優達)によれば、彼の歯形が違う事を指摘しています。 
数人がガルデルの遺体に疑問を抱いたらしい。 ガルデルの遺体は1936年2月6日にチャカリータに埋葬された事になっています。 
この事故で奇跡的な生存者が3人いたのですが、その一人がグラン・フリン(運行係り、当時30歳、フロリダで79歳で没)は助手席に立っていたので墜落直前に飛び降り、まつたくの無傷で命拾いした。 アギラール、プラハらは重症、しかし、両者は治療でメデジンに長らく滞在した快復し、プラハはスペインに帰国。 アギラールはロサーノに電報で連絡を取り、ガルデルの遺体をウルグアイに送る計画を立てたが実現させられなかった。 この人は不運が付きまとい60年に53歳のときにブエノス・アイレスで交通事故死した。
(5)事故の原因は?
当時の新聞記事では色々な説を載せているが、いずれも原因を解明されていない。 
サンペール操縦士がSCADTAのハンス・トンム操縦士へ仕返し復讐するつもりで急降下飛行の失敗ではないかとされている。 後年スペインでのプラハ氏の証言によると、SACO社のウイルソン氏に出発の前日に『カリに行くには霧の出ない早朝に離陸する必要があり、遅くなればアンデス山脈は越えられないので、その場合はメデジン経由でカリに向かう』と説明されていたと語る。 この証言は非常に重要で、何故直接最短距離でカリに向かわなかった理由が解明したわけだ。 SACO便は午前8時に出発の予定が何らかの理由で出発が遅れ正午なり、パイロットはアンデス山脈越えを不可能と判断して、メデジン経由でカリ行きを選ぶ。 また、メデジンからカリに行くには南方向にカウカ川の上流に向けて飛行すれば容易に目的地に到着すると判断したわけだ。 この進路変更がガルデル達の運命まで変えてしまつた訳か? 
この事故で関係した二社の航空会社の要約は:
SCADTA(Sociedad Colombo-Alemana de Transporte Aereo)コロンボ‐ドイツ航空会社、1919年創立。 アマゾン流域地方のコロンビアとペルーとの両国境で領土戦争のときに、ナチス・ドイツがコロンビア側に協力する。 その後紛争解決後も一部のドイツ人パイロット残り、この会社を設立した。 この事件後パン・アメリカ航空の資本を受けて南米一番の民間航空アビアンカに発辰する。
SACO(Sociedad Aerea Colonbiana)コロンビア航空会社、若冠32歳の財閥息子のエルネスト・サンペール氏が起立した会社。 フオードから当時の最新型F-31三発機を三機、購入して、氏自身一機を操縦して、メキシコ経由でコロンビアに持ち込む。 
この事故で会社は果かなく消滅の運命を辿る、氏の遺体はボゴタの中央墓地に葬られているが、歴史的に殆んど忘れられた存在です。
(6)ガルデルがボゴタ市で辿った場所:
テチョ飛行場を始めレアル(Carrera 7 y calle13)、オリンポ、ナリニョの劇場、グラナダ・ホテル(Carrera 7 y calle 14)、そして、“ボス・デ・ビクトル”等の各施設は跡形も無く取り壊しや他の施設に運用代えの運命にあっています。 例えばグラナダ・ホテルの跡地には、国立銀行の巨大なビルが聳えています。 劇場の跡は駐車場と仮したり、うらぶれた映画館に変貌しています。 飛行場の跡は一時競馬場となりましたが、現在は庶民向け住宅地化となり、当時の面影は全然ありません。 ところが、ガルデルへの追悼記念碑銅像に遭遇したのです。 そこは市内中心地から10kmほど北(Cra 10ycalle97)に位置する場所ですが、‘98年8月24日に63年目追悼記念として、当時のボゴタ市長、エンリケ・ペニャロサ氏、カルロス・カリスコ亜国大使、ドミンゴ・スイパーチァ・ウルグアイ大使らの明記された追悼プレートが捧げられる。‘05年6月24日に70年目の追悼記念式をエドアルド・ガルソン市長、マルティン・バルサ(プグリエーセに瓜生二つ人)亜国大使、エドアルド・アニョン・ウルグアイ大使が参加して花束の捧げと追悼記念プレートが据え付けられています。

ボゴタのガルデル70年追悼記念(2005年)

カラコル放送局主催で今年も追悼行事が行われたようです。 この胸像はフアン・カルロス・フェレーロ彫刻家(故人)の作品です。 ブエノスにアトリエを所持していた人で、ブエノスの地下鉄D線コングレッソ・デ・ツクマン駅の壁に同じスタイルのガルデル胸像がはめ込まれています。

参考は1975年6月、新聞に載った、ガルデル追悼40年記念特別記事。 その他、50年、60年追悼記念記事、ラジオでの特別番組放送などを参考にしています。

2009年10月18日
福岡貞夫記

続く「ガルデルの足跡-2」へ

閲覧数1,654 カテゴリタンゴ徒然 コメント2 投稿日時2009/10/22 00:29
公開範囲外部公開
コメント(2)
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  • 2009/10/22 06:16
    Bohemioさん
    カブキさん、的確な位置に写真をはめ込め手下さり。感謝します。亜国大使はプグリエーセに似ていると思いませんか?
    次項有
  • 2009/10/22 08:36
    > Bohemioさん
    お頭の形はたしかにプグリエーセで濃いサングラスはディサルリですかね。
    次項有
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