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2009年11月14日(土) 
 ガルデルの死の前後のことを調べた結果を提供くださった福岡さんが、今度はガルデルの生誕について写真を添えて文を書いて送ってくださいました。本文を読んでいただくと分かるとおり福岡さんはウルグアイ人説を推しておられます。昨今はフランス人説がほとんどで、細部にわたってウルグアイ人説をしかも日本語で展開くださる福岡さんの労苦に謝意を表します。
カブキ自身はどちらが本当なのか分からないタンゴ学徒であること申し添えます。手元にあるのはラファエル・フローレス著の「CARLOS GARDEL Tango Inacabable」と同者著「Gardel y el Tango」、加えて神戸のタンキチさんからフェレール著の大部な資料ですがいずれもフランス人説(完全に読んでませんが)をとるものと思います。

では福岡さんからの一文を以下に転載します。

ガルデルの秘密-1:
偉大なタンゴ歌手、カルロス・ガルデルの生まれは謎に包まれています。
このテーマの過大な謎は、果たしてどれだけ解明できるか挑戦の価値があると思われます。(1)ホセ・ラサーノの証言によりフランシスコ・ガルシア・ヒメネスが書いた有名な伝記物語“カルロス・ガルデルの人生”とガルデル死後に現れた謎の“遺言書”では『カルロス・ガルデル』は1890年12月11日にフランス、トゥールーズ市のラ・グラーブ病院で生まれたとあり。本名“シャルル・ロムアルド・ガルデス”、1893年3月3歳位の時にフランスから母親ベルタ・ガルデスと共にアルゼンチンに移民する。そのとうりシャルル・ロムアルドはベルタ夫人の実子です。が、彼はけしてカルロス・ガルデルとは同一人物では無いのです(二人の年齢の差、幼年時代の写真の違い)。単純な事実を隠して、ガルデルをフランス生れに仕立ているのです。そして、これらのデータはあのメデジンでの飛行機事故後に現れた物です。
① 以下で説明していきますが、ベルタ夫人が3歳の実子と9歳のカルロスを連れてブエノス・アイレスに上陸した時から物語が始まるのです。そして、事実は少しずつ解明されていく筈です。
(2)ではまず、ガルデルの母親とされている、ベルタ・ガルデス夫人はどこから現れたのでしょうか。彼女の母はフランス人、エレーネ・ジネコンデ・カマレス(1931年3月31日、トゥールーズ没)で、ベルタはスペイン、バルセローナ生まれとされています。
彼女は19歳のころ二人の友人アナイス・ベアクス、オダリエ・デゥカセらとマルセーユ港を出発しウルグアイ、モンテビデオに着き、タクアレンボー近郊にある金鉱サンタ・エルネスティーナの持ち主の同国人ビクトル・オリビエルーを辿りやって来る。彼女らはタクアレンボーでこの鉱山での洗濯物のアイロンかけの仕事を得る。
そして、エスカジョーラ氏に関係するキャバレーで踊り子として舞台にたつこともありましたので、エスカジョーラ氏とは顔見知りの間でした。
(3)カルリートス・ガルデスの生まれの本題に入りますが、ガルデルよ、貴方はアルゼンチン人ではない(Che Gardel no sos Argentino)、“偉大な秘密(Un gran secreto)”
ミルナ・ルグノン、クレメンシア・グスマン(Mirna Rugnon,Clemencia Guzman)共著からのデータとwww.gardel.web.comのサイトからのデータも加えてあります。‘75年5月号『中南米音楽誌』95ページで“思いの届く日”を書いた、高場将美氏の記事(ウルグアイの記者:エラスモ・シルバ・カブレーラ氏の原稿による)と対照しながら、物語を進めて行きます。
まず初めに高場氏の説明文は『』で囲みました。
(4)ガルデルの出生:
①:『1881~3年の間で生まれた、誕生日は不明。1881年11月21日?』
1881~4年の間に生まれる?後年ガルデルが自己申告(1920年)で1887年12月11日出生と届けを出してあるのですが、ガルデルの甥のひ孫の証言によると1884年生まれだそうです。彼の誕生日を明確にした別の伝記は見当たらないのです。
②:『生地はウルグアイ国タクアレンボー郡、エデン渓谷のあたり』
  *エデン渓谷、サンタ・ブランカ、ペドロ・エッチェガライ農園。

ウルグアイ東方共和国

③:『母はマヌエラ・モーラ。ガルデルを生んだころまだ13歳くらいで、後に精神に異常をきたした。15歳の時に結婚、ガルデルの父とは別の人』
  *実母はマリア・レリア・オリバ。彼女は別に精神に異常も無く、ガルデルの父と15歳の時に結婚する。そして、ガルデルの弟妹6人を授けています。
④:『父は同地方の名士であるフアン・エスカジョーラ氏。結婚していたからガルデルを認知しなかった』。
* 父は同地方の名士で、名誉大佐カルロス・エスカジョーラ・メディーナ氏。
マリアの姉ブランカと婚姻中だったから、教会への手前や政治的地位を守るために、世間からガルデルの生まれをした隠にして、当然に認知しなかった。

 ガルデルの母と父

カルロス・フェリクッス・エスカジョーラ・メィディーナ氏は父、フアン・エスカジョーラ(ガルデルの祖父に当たる人、スペイン・バルセローナ、サバデル出身)。
母はウルグアイ、ミーナス出身のベニフェシア・メディーナの元に1845年10月23日にモンテビデオに生まれる。彼はパイサンデゥーで幼年時代を過ごし、モンテビデオで青年時代に軍隊生活おくる。そして、1865年にウルグアイ最大の県、タクアレンボーにやって来る。モンテビデオから400km離れたエデン渓谷に落ち着く。
1881年にマキシモ・サント将軍独裁大統領の元にタクアレンボー県の政治首班に指名去れる。後年この独裁者による命令で1886年に大佐に昇進する。
其の上でオリバ‐スジルラ家族(イタリー領事を務める)と知り合う。まず、この家族の長女クララと結婚する。彼は軍人に相応しく高慢で、何時もお洒落でパジャドール並みに歌とギターを奏でる芸能才能に優れ、女性たち注目の元であり、所謂は現代で称されるプレイボーイだった。1871年に鰥夫になり2年後クララの妹、ブランカと結婚する。6人の子供を設ける。この家庭にはクララの末の妹、13歳になるマリア・レリアが同居していた。そして、カルリートスの誕生に至るのです。エスカジョーラ氏は1915年に没。
⑤:『本名はわからない。ハシントという名前だと思われるが…….カルロスの名は1913年にベルタ夫人の養子となったときに付けられた』。

 
シャルル・ロムアルド(左)カルロス・ガルデル(右)

* 本名を明かした別の記録はない、モンテビデオの小学校の生徒名簿によると、カル  
ロス・ピタールガの名前ではないかと仮定されています。当時ウルグアイでは日本の養子縁組の戸籍に入る様な事も無く、1888~9年ごろにベルタ嬢が養育を斡旋されたのを引き受けた。ガルデルは4~5歳に成長していた。ガルデル自身が出生届を出した時のカルロス(カルリートス)としておきましよう。1895年(10歳)、モンテビデオにてカルロス・エスカジョーラ(父親と同じ名前)で出生届けを出した(従姉の手助けで?)。1902年12月10日(17歳)にタクアレンボーの教会に洗礼証書を請求している。18歳以上の男子は軍隊入隊検査を受ける義務を果たされるので、この時に当然出生届、洗礼証書等の書類提出が必要になる。
ガルデルの死後これらの届け原本は何者かに破り剥ぎ取られた形跡があるのだそうです。

*印はカルロス・ガルデルに関した事項。

ガルデルの秘密ー2に続く


閲覧数2,366 カテゴリタンゴ徒然 コメント17 投稿日時2009/11/14 03:19
公開範囲外部公開
コメント(17)
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  • 2009/11/15 10:07
    El Bohemioさん
    タンゴカブキさん、
    Ar国人はガルデル、フランス人説に拘るのか理解に苦しみます。フェレール氏の説は重要と思います。オリージャ間の紛争は今にはじまった事ではなく、1930年代サッカー世界大会でウルグアイが優勝してから揉め事が始まり、ガルデルはそのためにウルグアイ生れを公表しなくなったのです。彼は被害者なのです。
    次項有
  • 2009/11/15 23:47
    El Bohemioさん
    タンゴカブキさん、ガルデル幼年時代の写真に説明をつけます。シャルル・ロムアルドは7歳位でガルデルは5歳位の頃と思われます。この写真はディフーノが作り、ベルタ夫人に渡した物です。二人ともシャルルと言うことに仕様としたのです。当然、ガルデル死後のことです。
    次項有
  • 2009/11/16 15:09
    > El Bohemioさん
    拘りはUrg側にもありますよね。まぁこの問題は成り行きを傍観させてもらいます。
    次項有
  • 2009/11/16 15:15
    > El Bohemioさん
     シャルルもカルロスも根は同じ名前で英語風ならチャールズとなるのでしょうね。出自を表わす姓のほうの探究に興味がありますね。ガルデルとしたのはいつからでどこから持ってきたのでしょうか?
    次項有
  • 2009/11/17 00:18
    El Bohemioさん
    > タンゴカブキさん
    まず初めに貴サイトに公平な配慮で小生の雑文記載くださりまして感謝いたします。『ガルデル』の性名を届けたのは1920年10月8日にArg国駐在Urg国領事館へ出生届けを出しています。性名『カルロス・ガルデル』生地Urg,タクアレンボー、1887年12月11日生まれ、“父親”名前はカルロス、Urg人、母親はマリア・ガルデル、Urg人いずれも他界。現住所:ロドリゲス・ペニャ451番地、のデータがあります。
    次項有
  • 2009/11/17 19:42
    > El Bohemioさん

      今日は色々ありブログチェックが遅れました。
    ガルデルという姓の女性(男子は母親の姓を継ぐのですよね)が別に実在するのですね。幼い時からガルデルと名乗ったときはこのひとの存在を知ってたのですか。名乗っていながら30歳あるいはそれ以上になって正式に姓を届け出たのですか。母として届けを出されたマリア・ガルデスと実母マリア・レリア・オリバとの関係はどういったものだったのでしょう。ふたりのマリアとベルタ、三人の母とは!色々複雑ですね。私の混乱を解きほぐしてください。お願いします。
    次項有
  • 2009/11/18 00:44
    El Bohemioさん
    > タンゴカブキさん
    ガルデルが出生届けを出した記録の通り略し書いたのですが、マリア・ガルデルという人物が存在したどうか小生には判断できません。ガルデル10歳の時にカルロス・エスカジョーラ。すなわち父方の姓で出生届けを出したが、受理されていません。マリア・オリバの姉がエスカジョーラ氏と婚姻中で、其の家庭にはカルロス名の息子が存在していたために彼の申告は破棄去れたのでしょう。母はあくまでマリア・レリア・オリーバだけのはずですが、彼はこの家庭から完全に末殺去れようとしていたのです。父母の苗字を使えない立場で居たわけです。Urg領事館でこの出生届けが受理された経緯は謎です。受理した書記官の寛大な処置配慮を讃えるべきでしょう。ディフーノはこうした事情を可なり知りつくしていた形跡があります。だから其の隙を突いた巧妙な遺書を偽造できたのです。可愛そうなガルデルです。
    次項有
  • 2009/11/18 09:57
    > El Bohemioさん

    偽造や剥ぎとりなどの意図が分かりませんがガルデルの周辺には油断ならない人間が多くいたのですね。マリア・ガルデルという女性が実在しないとなるとガルデル自身さえ虚偽の申請をした可能性があるのですね。謎は深まるばかりですね。
    次項有
  • 2009/11/19 07:03
    El Bohemioさん
    > タンゴカブキさん
    “偽造”とはガルデル死後直ぐにタイミングよく出て来た『遺言状』を指します。ガルデルが1933年11月7日に手筆で書いたといわれたもので、『私はシャルル・ロムアルド・ガルデス』であり、ベルタ夫人が実母だから全財産を相続させろ。という内容の遺言状です。、
    次項有
  • 2009/11/19 18:25
    > El Bohemioさん
     遺言状が偽造とわかればベルタは相続はできませんね。ガルデルの遺産は誰にわたったのでしょう。多くの印税は誰が受け取ったのでしょう。確かにベルタの居た家は粗末で、とてもガルデルの遺産を受けついだとは思えませんね。遺言状が偽造とはどこから判明してしまったのでしよう。
    次項有
  • 2009/11/20 00:55
    El Bohemioさん
    > タンゴカブキさん
    偽造の遺言状の謎は今は明かせません。ベルタ夫人は相続を受けていない筈はありません。それで無ければ誰か旨い汁をすった人が居た事になりますが、、、先をお楽しみに。
    次項有
  • 2009/11/20 18:05
    > El Bohemioさん
     そのあたりのことは続きを読めばよいのですね。では早速続きを掲載します。
    次項有
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