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2007年04月24日(火) 
兵庫県立大学大学院環境人間学研究科岡田真美子研究室には、三人の博士後期三年生がいる。東北の「契約講」を柱に、日本的地域ネットワークのあり方と展望を研究する古賀さん。インドネシアの群落コミュニティの「アダットファミリー」に注目して、慣習法と環境政策を研究する神頭さん。そして、「ICTと地域ネットワーク」をベースに、情報通信技術とこれからの地域コミュニケーションの方向性を模索する私である。一見まったく分野も対象も異なる三人の研究を束ねるのがインド哲学が専門で大学では環境宗教学の教鞭を取る岡田教授。彼女の手にかかると、魔法にでもかかったかのように、三人の共通点が浮かび上がり、そしてその相互交流が大きな意味をもち始める。哲学者のコーディネート能力はかくに偉大である..(^^)

昨日のゼミには、古賀さんが三陸の契約講の取材で欠席だったが、神頭さんの論文解説をうかがっている中で、三人の研究の共通点である「持続継続する(サスティナブルな)地域ネットワークとは?」という議論になった。契約講もアダットファミリーも、古い昔から「慣習法」を大切に守りながら地域ネットワークを維持してきた。
※慣習法: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A3%E7%BF%92%E6%B3%95
従来「しがらみ」になりがちな地縁・血縁という関係性を、ほどよいネットワークとして継続させてきた要因には、慣習法の拠り所となっている地域信仰があったからだという。

東南アジア諸国では欧州列強による植民地政策やその後の近代化の波によって、地域を支えてきた慣習法がどんどんと消滅し、さまざまな社会的歪みを生み出している。インドネシアでは最近になって慣習法の有効性を再評価し、政府による促進策が打ち出されているところもあるが、一度消滅した慣習法は、制度だけを復活させても機能していない(神頭)という。神頭さんの研究フィールドであるロンボク島のアダットファミリーは、インドネシアでも数少ない伝統的な慣習法が残っている地域だ。「慣習法は作るものではなく(地域の生活そのものから)できるもの」だったのではないか。そして信仰の対象が地域の神さまではなくエコノミー(経済)の神に移ってしまったからなのではないだろうか。

お留守の古賀さんに代わり岡田教授から「契約講」の事例を引き出しながら、心地よく暮らせる地域のつながりの要素として『ほどよく閉じた(開いた)ネットワーク』という提起がなされた。一般的には「ネットワークはグローバルでオープンが良い」と考えられているが、サスティナブルであるという観点から言うと、サイズも開放性も少々考察が必要であるようだ。同様にネットワーク内部の紐帯についても強いのが良いとは限らないことも押さえておかなくてはならない。

強い紐帯によって接続されている関係は、相互にとっては非常に有効である場合が多い。しかしその関係は、他者から見ると排他的な疎外感を与える。当人たちは気づくことなく、ネットワーク内にグループ化現象を生み出す。リアルで小さな地域ネットワークの場合には、ネットワーク内部全体で強い紐帯が維持され、一度ネットワークに参加できればほぼ均質な強さの相互関係を与えられるので、グループ化による弊害は比較的小さい。グループ化の弊害については、下記ブログに記載しておいた。
「見えすぎちゃって困るの~♪」 http://hyocom.jp/blog/blog.php?key=13019
「講」や「アダットファミリー」のような地域ネットワークでは、この中でいう「空隙」をリアル社会の中で上手に作ってきたのではないだろうか。

ほどよく強い紐帯によって構成されるほどよく閉じた地域ネットワークには、「与える喜びを感じ合う」という贈与経済のメリットを共有する関係が成り立っている。まさに支え合うことをコミュニティの社会規範として当たり前のように受け入れているつながりがそこにある。大規模災害が起こったあとに被災コミュニティにおいて出現する「災害ユートピア現象」と呼ばれるものがあり、近代においても再現することを具体的にみせてくれる。
「災害ユートピア現象」については、下記のブログを書いている。
「災害ユートピアと米国Netday」 http://hyocom.jp/blog/blog.php?key=2921

つづく

閲覧数4,562 カテゴリロンブン コメント1 投稿日時2007/04/24 10:59
公開範囲外部公開
コメント(1)
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  • 2007/04/24 11:30
    オメメさん
    相互扶助というのは昔から社会の中で自然発生的に作られて来ていますね。
    私の経験したところでは、スペインでは目の不自由な人が街でタバコを売っていました。
    タバコの販売をこの人達に許可しているようです。
    中国の敦煌では脚の不自由な人々が板に車を
    つけたものに乗って、屋台の食堂街を定期的に回って、お客になにがしかのお金を貰って
    いました。屋台のおばさん達も彼らを追い払うでもなく、お客に少しやってくれとむしろ
    共同社会の義務のように勧めていました。
    にほんでも、目の不自由な人に金貸しを認めていたこともあります。
    政府がすべてを取り仕切ろうとすると、どうしても切り捨て部分が生じましょう。
    そんな、隙間をこのネットワ-クが埋められたらとも思います。
    次項有
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