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2007年06月04日(月) 
「神様、仏様、稲尾様」
1958年の日本シリーズ、読売ジャイアンツに3連敗した後の第4戦、西鉄ライオンズの三原監督は、第1戦、第3戦に先発した稲尾をスタメンでマウンドに上げた。そしてその試合で勝利をもぎ取ると、後の3試合でも稲尾を起用し続けて4連勝し、奇跡の大逆転日本一を成し遂げた。実に7試合中6試合に登板(うち5試合に先発、4試合完投)し、第3戦以降は5連投、更に第5戦ではシリーズ史上初となるサヨナラホームランを自らのバットで放つという、文字通り「獅子奮迅」の活躍を見せ、ファンからは「神様、仏様、稲尾様」と崇められた。江川も松坂もここまでは言われない。それくらい凄い投手だったのだろう。

もうひとつこのエピソードには、「神さま」と「仏さま」をいっしょこたにしてしまう日本人の宗教観のいいかげんさが如実に表れている。だって、神道の神様と仏教の仏様は、もともとはまったく異なる信仰に基づく象徴であるからだ。もともと神道は日本古来の土着信仰を元とし、仏教はその後当時の政権が移入した外来信仰であったという。いったいいつ頃から日本人の宗教観がこのように「ええかげん」になったのか、興味があったので本を手に入れて読んでみた。

義江彰夫,『神仏習合』,岩波新書,1996
ことは、8世紀後半から9世紀の初めにかけて、全国のいたるところでその地域の大神として人々の信仰を集めていた神々が、次々に神であることの苦しさを訴え、その苦境から脱するために、神々の身を離れ(神身離脱)、仏教に帰依することを求めるようになってきた(P12)。

仏教側はこのような神道の動きを適確にとらえてむ、民間を遊行する僧たちの手で神々を仏教へ積極的に取り込むように働きかけたのである。ここで活躍するのが満願禅師である。伊勢国桑名郡養老山塊の南端にある多度山にある多度大神(豊饒の神)の場合、満願禅師は、神が鎮座する多度山の南辺を伐り払って小堂を建て、その中に菩薩形の神像を彫り上げて安置した。これが多度神宮寺のはじまりとなった。

その後地方の豪族などから鐘や塔の寄進を受け、しばらく後に多度大神は多度大菩薩としても崇められるようになったわけだが、菩薩とはもともと悟りをひらくまえの釈迦のことをいい、大乗仏教で悟りを求めて修行する人のことである。仏になろうとする神、ここに神仏習合の典型モデルがある。政治がもとめたもの、民衆の動向、宗教にかかる潮流など、神仏習合の背景は古代から中世に衣替えをする日本という国のふるまいが凝縮されているようだ。

つづいても、いいかな?!

閲覧数4,933 カテゴリ日記 コメント9 投稿日時2007/06/04 10:01
公開範囲外部公開
コメント(9)
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  • 2007/06/04 10:29
    オメメさん
    神道は宗教なのだろうか。まず、教典がない
    、綺麗な所は敬い、汚いところは清める、ただそれだけで、他の宗教が入ってきても排除しないばかりか、なんでも入れてあげる。
    いじめなんかしない。何でこんな凄いもの考え出したたのだろうか。
    宗教戦争で未だに争いがたえない国々は遅れている。
    次項有
  • 2007/06/04 11:06
     弱い人間が幸せに暮らすために、宗教は有る。

     宗教の名を借りて、何千年もの戦いが有るのはなぜ??

     それを救えるのは、神か仏か・・??

     神も仏も、「自ら助くる者を助く」なら、自分でやらなきゃだめか!!
    次項有
  • 2007/06/04 14:25
    日本文化論の講義を思い出しました。( ̄ー ̄;
    このネタ、好きです♪

    >つづいても、いいかな?!

    「いいとも!」 レスは続編で。(^-^;
    次項有
  • 2007/06/04 15:04
     お祝い事(お宮参り・七五三・結婚式)は神社で、不幸(葬式)はお寺さんで。

     私も、私の周りもみ~んな、なんの不思議も感じずにやってますね。

     正直な話し、私自身にとって神仏習合とか本地垂迹説とかは、歴史や文化史だけの世界ですね。

     ある人類学者(名前が思い出せません)が、歴史の過程で様々な淘汰が行われ、一神教の世界を進歩した社会、多神教の世界は未開の世界であり、日本及び日本人は特異な存在だ、みたいなことを書いてたのを読んだことがありますが、そんなに特異な存在ともおもえないけどなぁ~。って感じです。
    次項有
  • 2007/06/04 16:58
    WRさん
    多度の話は読んだことがあります。つづきを期待しています。
    次項有
  • 2007/06/04 20:50
    こういう話、大好きです。
    ぜひぜひ続けてください。

    神仏習合のことを松岡正剛風にいうと、
    異質なものを「アワセ」て深化させるということでしょうか。中国の漢字と日本語の音をくっつけて、ひらがなやカタカナを作ったり、こういうのが日本人の特徴なのではないかと思います。(と、松岡は言ってます。)

    そういえば、弘法大師空海なんかは、
    仏教者というより修験の行者という感じで、日本伝統の神様系に近いような気もしますね。
    次項有
  • 2007/06/04 22:27
    神さんも苦しんでるんですね。人間っぽくって親しみ沸いてきました。  保♪
    次項有
  • 2007/06/05 10:10
    ひよこさん
    つづいていいとも!です。

    >神道は宗教なのだろうか。まず、教典がない

    オメメ先生、パチパチです。
    「西洋的近代宗教学」の呈する、大変根本的な質問です。

    答えは、神道も立派な宗教です。

    経典や教典を宗教のコア要素とみるのは、やはり近代的なのですね。

    神道はカミサマのことを語るものです。だから立派な宗教であります。

    それから、日本の宗教観を「いい加減」と思うのもまた、西洋的なリジッドな宗教観の影響です。
    (もっとも、キリスト教だって、ローマの太陽の祭りを取り入れてクリスマスにし、ゲルマンの森の信仰を取り入れてクリスマスツリーにしているのだから、一皮向けば同じようなものなのですが。)

    融合的な性質は日本の宗教に限ったものではなく、ヒンドゥーも「権化」思想を発達させましたし(アバタはサンスクリット語の権化アバターラからきているでしょう)、インド仏教もすでにして、インド古来の神を仏教の守護神として取り入れています。

    そもそも阿弥陀佛や大日如来などはゴータマ・ブッダは考えてもいなかった仏様で、むしろカミサマに近い。

    だから仏様とカミサマがまったく別だ、と言うことはありません。

    こたつねこさん、日本型宗教学の基礎をおさらいする時間が必要なようですね。
    上記のことは環境宗教学I第2-4講、大学院環境宗教学特論のはじめのほうで話しています。
    次項有
  • 2007/06/05 18:21
    Diggerさん
    地震の後、神社の復興に係わりました。
    そのときの感想、「なんとまぁ、おおらかなんだろう、神道って」
    そのとき、何回おみくじを引いても「大吉」だったのも不思議でした。
    次項有
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