オーストラリアの北の端に「木曜島」があります(地図の赤い星)。 貝殻から高級ボタンをつくる真珠貝の採取が戦前に盛んでした(今は合成樹脂が主流となりすたれました)。 19世紀末にボタンの需要に対応するため、マレー人・中国人など、いろんな民族に真珠貝採取をやらせましたが、とても危険な仕事のため、うまくいきません。 そこで、紀州の日本人に大きな報酬を約束し声をかけます。当時、東京も鉄道も知らない貧困な紀州の人たちは勇躍、豪州に行きました。
紀州の串本や古座などの地域ごとに船のチームを組ませ、チームごとに競争させると実に良く働きました。各船のダイバーは1人でチームが支えます。 白人のダイバーはせいぜい1日1トン真珠貝を挙げれば上等でした。しかし、別の日本人チームが5トン挙げれば、競って7トン挙げる。やがて8トン、11トン、12トンと記録は更新されます。
司馬遼太郎は「木曜島の夜会」の中で、この行動様式を興味深く書いています。 司馬は、元ダイバーの老人に語らせています。「はじめは欲だが、だんだん金銭から離れてゆく。自分の以前の記録と他の船に対する競争だけになってしまうな。海底では、もう金銭もなにも念頭にない。何トン水揚げするかということだけやったな。…みな鬼になってしまう。」
このように、日本人は、最初は金銭が動機でしたが、仲間と技量を競ううち、金は頭から離れていきます。命よりも自分の限界を超えて技術を競っていく宗教的な純粋な動機になっていきます。これが道を究める「職人気質」というのだと思います。
潜水病による死亡率が毎年10%で、700人の日本人が潜水病などで命を落としました。金銭だけを考えれば親方(経営者)になるのがてっとり早いのですが、日本人は危険なダイバーとして極限までの競争を選びました。 司馬は老人にさらに語らせます。「神様がせめて50歳に戻してくれるならもう一度やる。あんな面白いことはなかた。」「日本人の性やな。」
「職人気質」のために、危険な真珠貝採取が日本人の独占状態になり、戦前の木曜島の人口の4割600人余りが日本人となりました。日本人は、どこにいっても日本人らしさを発揮したのです。 何も資源のない日本がこれだけ豊かになったのも、この極限を極めてゆく宗教的ともいえる「職人気質」のおかげではないでしょうか。
私は、豪クイーンズランドの客員研究員だった1995年に木曜島を訪問し、日本人の痕跡をみてきました。就職したばかりの1983年に和歌山県庁に出向したので、感激もひとしおでした。 パールダイバーの潜水具 重たそうです
播磨にも数多くの世界級の特産品があります。日本酒、食品、農産加工品などです。優秀な生産者がいらっしゃることは心強いです。この職人気質を播磨のブランド力アップに活かし、世界にアピールしていただきたいと思います。 |