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2007年06月20日(水) 
 「コモンズの悲劇(The Tragedy of Commons)」とも呼ばれるパラドックスのようなモデルで、生物学者ギャレット・ハーディンが1968年に『サイエンス』誌に論文「The Tragedy of Commons」を発表したことで、「共有地の悲劇」として一般に広く認知されるようになった。集団のメンバー全員がそれぞれ自発的に協力的な行動を取ればすべてのメンバーにとってよい結果になることは分かっているのに、個々のメンバーがそれぞれ自分にとって合理的な行動を取ろうとすると、結果として誰もに不利な状況がもたらされるという、ひとつの典型的な社会現象を表したものである。

 たとえば、共有地(コモンズ)である牧草地に複数の農民が牛を放牧する。農民は利益の最大化を求めてより多くの牛を放牧する。自身の所有地であれば、牛が牧草を食べ尽くさないように数を調整するが、共有地では、自身が牛を増やさないと他の農民が牛を増やしてしまい、自身の取り分が減ってしまうので、牛を無尽蔵に増やし続ける結果になる。こうして農民が共有地を自由に利用する限り、資源である牧草地は荒れ果て、結果としてすべての農民が被害を受ける。

 現在社会にもいたるところにこの現象は起こりえる。近所に小さな公園があり付近の住民の憩いの場となっている。不心得者がよく空き缶やゴミを捨てていく。みなでそれを注意すればいいのだが、私一人だけ捨てないようにしても、他のみなが捨てれば同じことなので、結局みんなが捨てることになる。その結果、公園はゴミだらけになってしまうのだ。

 公園のゴミ問題においては、ふたつの解決方法が考えられる。ひとつは監視員を雇ったりポイ捨てをする人が入れないように権限と強権を使って第三者が統制する「ヒエラルキー・ソリューション」。もうひとつは入場料を徴収して掃除する人を雇って、問題を経済的に解決しようという「マーケット・ソリューション」の考え方である。「ヒエラルキー・ソリューション」の場合、実施するには大きなコストがかかり、住民の利便性も大きく制限される。「マーケット・ソリューション」では、お金さえ払えば何をしてもいいという理屈になり、共有地の資源はごく一部の人たちに占有されも使い尽くされてしまう。これらは、真に望ましい解決法を提示してはいない。

 米国の公共経済学者であるケネス・アローは、彼の博士論文でもある『社会選択と個人の価値』の中で、資本主義的な民主主義国家における社会的選択には、政治体制による政治的決定、市場メカニズムによる経済的決定、そしてもうひとつの方法として「比較的小さい社会単位」に適用されるものとして、伝統的規則や慣習によるものを挙げている。しかし「近代社会ではますます稀になりつつある」と課題も述べており、金子郁容(慶應義塾大学教授)は、これを「コミュニティ・ソリューション」と呼んで現代社会におけるアプローチを明らかにしようとしている。


金子郁容,『新版コミュニティ・ソリューション』,2002,岩波書店


閲覧数4,900 カテゴリロンブン コメント4 投稿日時2007/06/20 11:29
公開範囲外部公開
コメント(4)
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  • 2007/06/20 18:36
    「コミュニティ・ソリューション」といえばかっこいいけど、昔の日本のコミュニティではこれが成立していたのでしょうね。
    うまく言えませんが、世の中が豊かになることに反比例して躾がおろそかになり、自分のことしか考えなくなってしまったのでしょうか?
    次項有
  • 2007/06/20 22:42
    隣の人を気にすると言うより、気にかけるということなのでしょうか・・・
    「人の振り見て我が振り直せ」という諺が今の日本社会で通用しないのなら、日本は美しい国にはなれませんね☆
    次項有
  • 2007/06/21 02:42
    ちょうちょさん、そうそうそれがいいたいんです。あまりに直接的だとなかなか伝わらないので、回りくどいようですが遠回しに述べながら確信に近づく...なんて感じで書ければと思っています。

    MOMOママさん、「気にかけ、ときに支え合う」という関係ですね。ほどよい相互扶助が成立する環境づくりが目標です。日本を美しくするには、わたしたち日本人が美しくならなくてはいけませんもんね。
    次項有
  • 2007/06/21 09:36
    jamjamさん
     僕が利用している京阪電車の楠葉駅は典型的な郊外駅で、駅前にはきれいに整備された広場があって大きなショッピングセンターや飲食店が立地しています。また周辺には大きな駐車場や自転車置き場も整備されています。
     ところで、この駅前が開発されて40年以上になりますが、つい数年前までは駅前広場には1台の自転車も見かけなかったのです。ところがこのごろは留め置きの自転車が目立つようになり、広場内を走り回る自転車も多くなりました。(他の多くの駅前広場に比べたら大したことはありませんが)
     当初は 「この広場には自転車は入れません」 という意味の立て札が立っていたように思いますが、監視する人もいないのにみんなよく守っていました。その後その立て札もなくなりましたが、自転車を乗り入れる人は稀で、快適な歩行空間が保たれてきたのです。
     ではなぜ最近は守られなくなったのか。考えてみると、この場所を利用する人々が、ここで言われている 「比較的小さい社会単位」 でなくなってしまったからだと思うのです。店舗数と業種が増えるとともに商圏も広がって、不特定多数の (雑多な) 人が利用するようになることにより、「自分たちの駅前広場」 という意識を持つ人が相対的に少なくなったからだと思うのです。
     この状態を元に戻すには、なくなった立て札を復活することも考えられますが、たぶん効果はないでしょう。強制的に排除する以外には方法はないと思われます。
     このケースは、適正な社会単位とは何かを考えるのにいい例だと思います。
    次項有
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