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2007年08月08日(水) 
今度の参議院選の結果を受けても、僕らはどの党が実権を握ろうと従うしかないようなことだが、以前にも日本新党、新生党、社会党と自民以外の政権が、天下をとってリーダーが変わったことがあったが、別に庶民にはどうということもなかったようにも思える。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする」

というのは、『新約聖書』に出てくる言葉である。
僕はキリシタンではないが、イエス・キリストという人に興味を持って二ヶ月ほど関連の本を読みあさったことがある。
なぜ興味を抱いたかというと、彼のリーダーシップのあり方もそうだが、もう十年ばかり前に『文明の衝突』という本が出ていて、そこに宗教・民族・文化の異なるものはやがて戦争を始める時代が来るだろうという予測があって、確かに今日のいわばキリスト教社会とイスラム教社会との激突が、現在さらに深刻視されていることが気になっていたからであった。

    http://www7b.biglobe.ne.jp/~yorikawa/pdf/sassi/iesu.pdf

庶民の憤懣の中から、新しい潮流が出てくる。
歴史は遡及できないし、もしもということはありえないけれど、「荒れ野」にイエスという人が出てきて人々はどう救われたのか、もし出てこなかったなら人々はどうであったのか、ということは気になることではある。

「天のまさに大任をこの人に降さんとするや、必ずまずその心志(精神)を苦しめ、その筋骨(身体)を労せしめ、その体膚を飢えしめ、その身を空乏(困窮)にし、その人の行うや、その為さんとする所に払乱(逆流)せしむ」

以上は孟子の告子下篇にある言葉だそうである。
「天の大任」を負う人物達は苦難は覚悟の上なのだろうが、あたりまえのことだけど僕自身は「天」の一員ではないし、「荒れ野」に住まう塵のような人間であるけど、彼等の権力闘争に明け暮れるような政治だけは御免被りたいといつも思う。
その権力闘争は、「文明」を異にする「衝突」ほど大袈裟なものではないのも確かで、もしかして一編の映画か小説か演劇の場面に感情移入して、ドラマを楽しんでいるようなものにしか過ぎないかもしれないのだ。

ま、茶番なら面白けりゃいいかな・・・。平和だからね、日本は。


閲覧数2,936 カテゴリひとりごと コメント11 投稿日時2007/08/08 08:36
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コメント(11)
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  • 2007/08/08 21:48
    ついでに言えばイエスの「荒野での40日」というのはモーセの「荒野の40年」(=出エジプトの期間)が背景にあるわけですが、モーセのたどり着いたカナンの地(イスラエル地方)というのは「乳と蜜のあふれる地」であり決して荒野じゃないと思うのです。
    でもまだ行ったことがないのです。一度行こうと計画していたのですが、戦争勃発で行けなくなりました。
    次項有
  • 2007/08/10 15:13
    「新約聖書」には古代ユダヤ教で使われている文言が、比喩、暗喩としても多く使われています。僕はこの「荒れ野・・・」についても、考古学的にはどうあれ、自然景観的にはどうあれ、人間社会の荒んだ様子を象徴するものとして使いました。政治とか道徳とか、そういうものが荒廃した世の中を「荒れ野」と呼び、「叫ぶ者の声」とは、民衆の苦痛にあえぐ声かもしれないし世を憂う声かもしれない、あるいは英雄の強い呼びかけかもしれない、という風な象徴的な暗喩として引用したわけです。

    確かにイエスの生涯を物語にした多くの本や映画、ことに傑作だなと思って読んだウォルター・ワンゲリンの小説「聖書」は、新約聖書に書かれていることはとりあえずは事実として創作されていますが、しかしそれでもその基となったマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの各福音書間には幾つもの異同や矛盾があって、史実か虚構かで学際的にも諸説があるようです(ジョン・ドミニク・クロッサンという人の書いた「誰がイエスを殺したか」では、とても興味深く詳細に調べてありました)。
    戦後「死海文書」が発見されて、「新約聖書」のオリジナリティへの疑問や、あるいは新たなイエス像が描かれることなどに対して、秘匿し隠蔽しようとしているのではないかとの動きを書いた「死海文書の謎」なども出たように、実際宗教的に教義的にキリスト教として今日定説として確立されているものと、そうでないもの(古代ユダヤ教)との判別は明解さに欠けることは多々あるようです。

    僕はごくごく日本的な感性しか持ち合わせないし、キリスト教徒ではないし、また学究的なことにも疎い素人でありますから、さらには神学的なことなどには、とりわけ心やすい近所の律儀な牧師さん(この方はプロテスタントで「関西聖書学院」で講義されている人ですが)を面食らわせることになるのですが、しかし僕のイエスへの傾きは、生半可な信徒よりは本物だと自負しております。ときに珍説を披露しては笑われましたが。
    そう言えば話のついでに(ふと思い出しましたので)、知人であるその敬愛する牧師先生が四年前翻訳された本をささやかながら紹介しておきましょう。でもこれは上記のような下世話なことを充分踏まえた上でも、より優れて上質な本だと思います。

    『キリスト教神学』第一巻ミラード・J・エリクソン著 安黒 務訳(いのちのことば社刊)
    http://www.wlpm.or.jp/pub/theology/t1.htm
    次項有
  • 2007/08/10 23:28
    私は聖書無謬説には立たない(聖書の批判的研究には大いに賛成)ので比喩、暗喩として聖書を読む立場には同感です。

    その前提で荒野を活動の舞台としたヨハネとガリラヤ湖畔で活動したイエスを比較して次のような生き方の違いを感じるのです。

    すなわち、ヨハネは現実社会から隔離された場所(荒野)から現実社会を批判して玉砕していきます。後継者はいません。

    それに対して、イエスは現実社会の中にどっぷりとつかっている民衆と交流をしながらエルサレム神殿に集う宗教家と戦い十字架につけられるのです。そして、イエスの死後イエスの教えに従う民衆が続出するのです。

    ネットで次のような説教を発見しました。「荒野」についての説教者の考察には学ぶところが多いと思うのです。
    http://www.ne.jp/asahi/church/sasebo/youshi_05_20.htm

    私や上記説教者と安黒牧師とはだいぶ考え方が違うと思います。
    次項有
  • 2007/08/11 09:09
    そのネットの説教を拝見しましたが、「荒野」についての考え方がだいぶ違うというようには思いません。それには以下のように書いてあるではないですか。

    >イエスは「自然界の荒野」を卒業し、いわば「人の世の荒野」に乗り込んでいく。自然界の荒野には野獣や食料の欠乏といった命を脅かすものがあるが、それよりもむしろ、「人の世の荒野」において人の命を脅かす物事と向き合い、命を脅かされる人々のただ中で共に豊かな命を分かちあい、紡ぎだしていくことをこそイエスは求めた。そしてそこにこそ、私たちの救い主、世界の救い主としてのイエスの姿があるのではないか

    僕もまさに全くそのとおりだと感じます。だから「人の世の荒野」を「荒廃した世の中」だと、言い換えてもほぼ同様の解釈だと思いますし、そういう意味での「荒れ野」は見解としてさほどかけ離れてもいないだろうし、勘違いであれ、仮に独自な思いこみだとしても、許される範囲の何ら差し支えないことのように感じます。「自然の荒野」が、俗世を離れて修行するような魅力ある隠遁生活の場所であったとしても、イエスは実際は「現実社会の中にどっぷりとつかっている民衆と交流」していく道(「在野にあること」)を選んだ、ということなのでしょう。

    ところで、僕はそうした学術的な教養や知識方面にはどうもあまり興味は湧かない方で申し訳ないのですが、もっと単純なというか幼稚な、ごく一般的に近所の人達が言うような話題が気になるのです。例えば先のネットで拝見した文章で言えば、前半よりむしろ後半、
    「人の命を脅かす物事と向き合い、命を脅かされる人々のただ中で共に豊かな命を分かちあい、紡ぎだしていくことをこそイエスは求めた。そしてそこにこそ、私たちの救い主、世界の救い主としてのイエスの姿があるのではないか」
    とありました。
    僕のブログで触れたハンチントンの本『文明の衝突』には(正確な文は覚えていませんが確か)、19世紀ごろまで西欧文明世界は宗教や文化や価値観が優れていたから世界の覇者となったわけではなく、組織的な暴力、つまり戦争に勝つ力があったからだという事実を我々は忘れている、というようなことが書いてあったと思います。
    この場合、この西欧文明世界というのは明らかに宗教で言えば「キリスト教」でありますが、非西欧世界を武力で隷属させようとした文明でもあります。するとある特異な宣教師達を除いては、西欧が敬虔なキリスト教徒が大多数の国家群とは言いながら、実に(しかもキリスト教は世界宗教と言いながらも)宗教とは無力なものだという感じをもつわけです。極論すれば、西欧文明の世界制覇はキリスト教の正義とともにあったのだろうか?それから、この本にハンチントンはこれからはもっと宗教や文化の衝突が起こるだろうと書いたわけでした。
    「新約聖書」からいったい何をどう学んだか、あるいは究極人間はその程度のものかなどと、まあ(誰でもするような話ですが)こんなことに興味がいくわけです。非キリスト教世界が欧米への隷属を嫌い抵抗したとしても不思議はない。イエスが神の子などとは信じられない、と嫌ったとしても不思議ではない。

    考えればキリがないのでこのへんで。しかし、僕はもっと気楽にこのブログを書いたつもりでしたが。

    次項有
  • 2007/08/12 23:01
    >イエスは「自然界の荒野」を卒業し、いわば「人の世の荒野」に乗り込んでいく。自然界の荒野には野獣や食料の欠乏といった命を脅かすものがあるが、それよりもむしろ、「人の世の荒野」において人の命を脅かす物事と向き合い、命を脅かされる人々のただ中で共に豊かな命を分かちあい、紡ぎだしていくことをこそイエスは求めた。そしてそこにこそ、私たちの救い主、世界の救い主としてのイエスの姿があるのではないか

    やっちゃんと同じく私もまさに全くそのとおりだと思います。


    >非キリスト教世界が欧米への隷属を嫌い抵抗したとしても不思議はない。

    内村鑑三もそうでした。「余は如何にしてキリスト信徒になりしか」にはその抵抗の軌跡が書いてあったと思います。
    なお、現在世界で力あるのは非西洋のキリスト教(韓国とか南米)です。欧米のものはだんだん弱体化しているように思えます。
    次項有
  • 2007/08/13 08:36
    *たけちゃんさん

    内村鑑三・・・まだ読んだことがないです。

    有名な人なのに、確か昔教科書で短い文章を読んだような記憶がある程度です。
    ぜひ読んでみようと思います。ありがとうございます♪
    次項有
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