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2013年04月17日(水) 

大阪城を出て南へ歩くと、大阪市が40年ほど前から整備を進めている「史跡連絡遊歩道(歴史の散歩道)」の第1号として出来上がった道路があります。僕が若いころに担当していたので、思い出に残る道路の一つです。

 

その道路へ入ったところにちょっとした木立があって、井戸枠と蓋が御影石でできた井戸があり、「越中井」と彫られた大きな石碑が立っています。

この付近は細川越中守忠興(ただおき)の邸跡で、越中井はその邸内にあった井戸とされています。慶長(けいちょう)5年(1600) 関ヶ原合戦の直前、忠興が家康に従い上杉攻めに出陣中、石田三成(みつなり)は在阪諸大名の家族を人質にしようとしましたが、忠興夫人玉子(敬虔なキリシタンで洗礼名ガラシア)はこれに応じず、家臣に胸を突かせて37歳の生涯を閉じたと伝えられています。

 

そういう縁もあってか、すぐ南にカトリックの「聖マリア大聖堂」が建てられていますが、その正面には聖母マリアを中央に、キリシタン大名として知られる高山右近と細川ガラシアの彫像が左右に立てられています。

また、この辺りから南には大阪女学院をはじめとするミッションスクールがたくさんあります。右端の写真は明星(めいせい)学園の中にあるチャペルですが、超モダンな美しい建物です。

 

この辺りを歩いていると、道路の中に大きな木が立っています。この辺りは前の大戦で焼け野原になりましたが、その中で生き残った樹木が、その後の戦災復興区画整理事業で道路の中に残されたものと思われます。大抵は神木として祀られていたので伐り倒すことができなかったのでしょう。

歩道には、よく目立つ道標が立てられ、路面には「つたい石」と呼ばれるプレートが埋め込まれているので、これに従って歩くと目的地まで行くことができます。

 

ここからしばらくは、所期の目的である20日に予定している「まち歩きハイキング」の「コース見直し」に入りますが、初めて歩く道も多く、新しい発見がありました。

この辺りは都心の一部にあたるので、幹線道路沿いにはビルが立ち並んでいますが、一歩中に入ると戦前の大阪の雰囲気を残す町並みです。商店街も昔ながらの庶民的な店が多く、戦災で焼けなかった町屋を利用したオシャレな店もあちこちに見ることができます。 

 

今回の「コース見直し」の火種になった「直木三十五記念館」は商店街から少し中には入った住宅地の中にありました。直木三十五(さんじゅうご)は、大正~昭和初期に活躍した大阪の文学者で 「直木賞」にその名を残していますが、彼の生地がこの辺りだったのです。記念館はこのビルの2階にありますが、1階はシャレたカフェになっています。

記念館の北を東へ行くと小さな坂道があり、「観音坂」という標柱が立っていました。この辺りには、こういう坂道があちこちにあります。坂を上がると谷町筋へ出ますが、ここからはしょっちゅう歩いている道になります。

少し南へ行くと東側に近松門左衛門の墓があります。元はお寺の中にあったそうですが、戦後その寺が移転し、現在は地下鉄の排気塔(?)の敷地になっています。

幅1mほどの通路を通って奥へ行くと、左手に小さな墓標が立っています。これが「日本のシェイクスピア」と言われた大文豪の墓かと思われるような小さな墓です。よく見ると墓石の一部が割れて修復した跡が見られます。これも戦災の傷跡でしょうか。

ちなみに、近松と同時代に活躍した井原西鶴の墓はもっと立派で、近くの誓願寺の中にあります。 

 

この辺りは秀吉が城下町をつくるときに寺を集めた「寺町」で、東から西へ「上寺町(かみてらまち)」「中寺町(なかてらまち)」「下寺町(したでらまち)」、そして南の方は「生国魂寺町(いくたまてらまち)」と呼ばれ、概ね同じ宗派の寺が集まっています。

その上寺町から地蔵坂という坂道を下っていくと、立派な仁王門を持ったお寺がありました。その下には灯台のような形をした鐘楼と西アジア風のドームのあるお寺がありました。現在この辺りに残っているお寺は、大半が立派なお寺です。 

 

高津神社の中を通って千日前通を渡ると、生国魂神社の北門に着きます。境内に入るとモダンな案内標識がありました。とても神社のものとは思えません。

この神社には本殿のほかにたくさんの社があります。西の崖上に4つの神社が1つの囲いの中に並んで祀られていました。向かって左から、城方向(きたむき)八幡宮、鞴(ふいご)神社、家造祖(やづくりみおや)神社、浄瑠璃神社です。

標識の中で僕がいちばん興味を持ったのが「鴫野(しぎの)神社」です。鴫野は僕が生まれ育ったところだからです。《なんでこんなところに鴫野神社が?》と思って社の前まで行き、由緒書を見て納得しました。

この鴫野というのは、僕が生まれてから30年間暮らした城東区の鴫野であり、安土桃山時代までそこにあった神社を移転したもののようです。当時、淀君が鴫野神社に祀られていた弁天さんにお参りするため足しげく通ったそうですが、鴫野は大阪城のすぐ東にあたる土地ですから、大いにあり得る話です。その後、いつか淀君は神格化されて「淀姫」として合祀されたということです。

淀君というのは僕の好きな人ではなかったけれど、この史実を知って俄かに身近な人として親しみを持つようになりました。 

 

 

この日の予定はここで終了。生国魂神社から出て南の方角を見たら、日本一高いビル「あべのハルカス」がハルカ彼方に霞んで見えました。

 


閲覧数584 カテゴリアルバム 投稿日時2013/04/17 12:18
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