新島旧邸から丸太町通へ出て東へ歩いた。鴨川を渡る橋の西詰に「女紅場址」(にょこうばあと)と彫られた碑が立っている。ここは日本で最初の公立女学校があった場所というが、「女紅場」とは面白い名前をつけたものだ。
橋を渡ると、道路の北側は京都大学医学部の敷地だ。その入口の一つに真新しい表札が懸っていた。山中伸弥さんのノーベル賞受賞によって設置されることになった iPS細胞研究所である。 建物の中に入って、1階ロビーの展示物を見せてもらい、御手洗いを借り、しばらく休憩させてもらった。厚かましい話だが、帰り際に玄関前で記念撮影するのに、守衛さんにシャッターを押してもらった。
東大路通を渡って更に東へ歩く。この辺りは「聖護院」という地名である。「聖護院八ッ橋」の店の前を通ってしばらく行くと、北側に、地名の元になった聖護院がある。大きなお寺だ。
更に行くと、一般に黒谷と呼ばれている金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)に突き当たる。この寺は浄土宗の大本山で、法然上人がはじめて草庵を営まれた地とされている。参道をしばらく行くと北側に巨大な山門が聳えている。扁額は後小松天皇の筆になるという「浄土真宗最初門」と文字が書かれているが、これは法然の弟子である親鸞が打ち立てた「浄土真宗」とは関係なく、「法然上人が最初に浄土の教えの真実義を広めた念仏発祥の地」という意味だという。 また、ここは幕末には京都守護職にあった会津藩主・松平容保(かたもり)が本陣を置いたところで、八重とも関わりがあり、寺内には彼女の書が残されているそうである。 門をくぐると、右側にある大きな楓の木が「これ以上ない」というほどに鮮やかな紅葉を見せていた。
御影堂(みえいどう)と呼ばれる本堂では特別拝観が行われていてメンバーのうちの何人かが入っていったが、なかなか出てこないので、僕はK君と二人で別行動をとり、新島夫妻のお墓を見に行くことにした。途中の白川通では「行列ができる」うどん屋があった。京都にはこういう店が多い。 お墓は永観堂の裏山にあるが、かなりの登りがあった。 急坂を登りきったところに夫妻の墓があった。右側の大きい墓標が襄のもの、左側の小さい方が八重のものである。
お墓を見ていたら、他の連中から《遅くなるので「打ち上げ」の場所へ直行する」》という連絡が入った。もうこのころには大分暗くなっていたので急いで坂を下った。 南禅寺の上まで来たとき、道が崩れていた。10月の台風のときの大雨で崩れたのかもしれない。 南禅寺の境内に入ったときは4時半近くになっていたが、まだたくさんの観光客がいた。ライトアップの紅葉を観る人も多いのだろう。
地下鉄の蹴上駅へ着いたのは4時50分、三条河原町近くの居酒屋へはちょうど5時に着いた。この居酒屋は屋号を「池田屋」といい、店内は「池田屋事件」や竜馬にちなんだ雰囲気に作られてあった。 |