人生には、繰り返し、それも、少しずつのズレが伴った繰り返しがあると思う。人生には、差異を伴った反復がある。 例えば、前回の記事。 40年ほど前、一人の高校生が、元町の書店で一冊の小説を手にする。その後、彼は公僕となって、20年後、震災に直面し、再び、元町の、もうひとつの書店で、同じ作家の評論集に出会う。そして今、共に廃業してしまった両書店に代わってアマゾンで入手した短編集を手に、自分史と読書歴を振り返る。 歴史が繰り返すように、個人の歴史にも繰り返しがある。ある種のズレを伴って。 なぜか。その円環の軸になっているのは何か。何を中心に回っているのか。 数年前、龍谷大学の創学を記念した講演会で、大江健三郎の話を聴いたことがある。そのなかで、大江は、ポール・ヴァレリーの言葉を引用してこう言った。 「自分達は現在を生きているようだが、この現在には、過去が染み込んでいる。と同時に、現在は未来をも準備するものだ。我々は、自分のなかに溶け込んでいる未来を生きている。未来は現在に開いている。未来を準備するのが、現在の生き方なのだ」 現在の自分には、過去が染み込んでいる。過去の様々な体験や学習のうえに、今の自分がある。具体的に何があったのかは問題ではなく、いまそこにいる自分が、過去のすべてを体現している。 同時に、現在の自分は、未来を準備する。だから未来は、過去と無縁ではありえない。現在の自分のふるまいが、過去に近似した未来を呼び込む。その円環の軸は、常に、現在の自分にある。この円環から逃れるすべも現在の自分にある。 |