先日樟葉駅の近くにある公園へ行ったとき、池に立ててある看板を見ると、その一部が修正されていました。文章の最後の部分です。
僕はこの看板を何度も見ているので《ははーん》と思いましたが、初めて見た人は《何でここにこの看板が立ててあるんやろ?》と不思議に思うかもしれません。 3年前に撮った写真を見るとこうなっていました。
以前はこの池に「オグラヌマガイ」という二枚貝が棲息していたので、この看板を立てたのでしょう。 ところが、最近の調査では全く確認できなかったので上のように修正したというわけですが、この文章ではその経緯が全く書かれていないので、訳の分からない看板になってしまったのです。 ここに書いてあることは間違いのない事実ですが、要するに「舌足らず」な文章なのです。会話の場合は《何で?》と聞かれれば《こうこうこういうわけです。》と説明できますが、文章の場合は一度公表してしまうとそういうわけにもいきません。 その意味では、元の看板も舌足らずなところがあります。ここに「この度、」と書かれていますが、この「この度」というのがいつのことなのか分かりません。看板のどこかに設置した日付でも入っていればいいのですが、それもありません。 この写真を見るとかなり汚れているので、設置されてから相当の年月が経過していると思われ、このときにはすでにオグラヌマガイは棲息していなかったということも考えられます。
そこで、《僕ならこういうふうに修正する》というものを考えてみました。
「文章」は自分の言いたいことを相手に伝える手段の一つですが、文章を作る上で欠かせないのが「推敲」という過程です。「推敲」では文体や文字の使い方に手を入れるといことも重要な目的ですが、何よりも重要なことは自分の思いを正確に伝えることではないでしょうか。特にこの例のような公共物の場合は、その一点だけに留意すれば十分です。 僕は元公務員だっただけに、こういうことに関心がありケチもつけたくなるのですが、そういう観点から見ると不十分なもの、「落題」と思えるものが多いのです。
人の常として、自分の知っていることを「常識」と思いこんで文章を書くことが多いのです。その意味で、読む人の身になって「推敲」を重ねるほど良い文章が出来るはずですが、自分のことに考えてみると、思わぬ誤解を与えていることも度々で、この文章を書きながら反省しているところです。 |