沖縄料理はやはり大正区へ行かないと駄目です。
新井ビルの「五感」についてはメイプルさんへのコメントにも書きましたが、ここは以前パブ・レストランが入っていました。しかし、女性をターゲットにした店の方が、時代の流れから言って成功するでしょうね。 (^_-)
それにしても、今の大阪の男どもは元気がないねぇ。五代さん、松下さんのような傑物が出てこないかなぁ ・・・
バル2軒目は、沖縄料理店に寄りましたが、こちらはイマイチで残念でした。ラストの3軒目に選んでいたのが、五代友厚の銅像が立つ大阪証券取引所の北浜交差点から少し南にある、カフェ「大阪北浜五感」でした。1F・2Fにお店が入った「新井ビル」は、由緒ある近代建築が残るこの界隈でも、ひときわ価値ある建物のひとつ。1922年に報徳銀行として開設以来、戦火からも逃れて、現在までその堂々とした姿をそのままに残しています。 創業1年あまりの2005年、「五感」浅田社長は、初めて新井ビルの前に立った時、その歴史をたたえた本物の迫力に圧倒されたといいます。五感本館にふさわしい建物を探して北浜を歩くと、歴史ある店や企業、文化が街中から伝わり、古き良き大阪の本物の上質な雰囲気を残したまちという印象に感動しました。 生まれ育った大阪の地で本店を持ち、大阪のお客様が誇りに思ってもらえる菓子をつくろうと五感を創業した浅田にとって、北浜と新井ビルはすべてを賭けるに値する存在となったのです。大阪・北浜をこよなく愛し、この歴史ある建物の保存に心血を注いでいたオーナーの新井氏の思いを受け継いで、できるだけ建てられた当時の雰囲気を残して改装し、「五感・北浜本館」がほどなくオープンしました。オーナーとテナントの関係を遙かに超えたふたりの「大阪」に賭けた情熱に触れることが出来るお店づくりに感激しました。 江戸時代、大坂は「天下の台所」と呼ばれる日本の物流の要であり、文字通り日本一の商業都市でした。千石船によって日本各地から米を中心とする貨物が運びこまれ、江戸をはじめとする諸国に流通したのです。河川や水路が整えられて水運が栄え、川縁には諸藩の「蔵屋敷」や年貢米を蓄えるための「米蔵」が建てられました。 当時、大坂で繁栄を極めた豪商「淀屋重當(号を个庵(こうあん))」が北浜の店先に開いた米市が全国の米相場の基準となり、商都大坂の発展に大きく寄与しました。北浜から中之島に渡るために土佐堀川に淀屋が自費で架けた橋が「淀屋橋」です。淀屋は、この中之島に米市を開き、集まった米を貯蔵するための蔵屋敷が百三十五棟も建ち並んでいたと言われています。 大名たちは、納められた米を蔵元の商人たちを介して販売するようになり、蔵屋敷では競争によって値をつける入札が行われていました。落札者に米切手と呼ばれる手形を発行し、代金の決済が行われると米が入手できるという取引形態です。17世紀末、米市場が堂島に移転する頃には、投機目的の売買もあり世界で最初の先物取引きが行われたのです。 日本全国からあらゆる食材が集まる「天下の台所」大坂は、独特の食文化が広まり、今日に至っています。また、長崎に来航する唐船やオランダ船によって輸入された砂糖も、船で大坂に運ばれ、唐薬種問屋、砂糖荒物仲買仲間を経て諸国に流通しました。良質の砂糖がいち早く入手できた大坂で、実はお菓子文化も大きく発展したのです。 五感がある北浜は、歴史的にみてもお米と砂糖に縁のある地です。 洋菓子というジャンルに、日本人の主食であるお米を取り入れた大阪発のブランドとして、五感はこのまちから「日本人の心に響く洋菓子」をつくり続けます。 日本人にとって、毎日食べるお米はかけがえのないものです。 「米」という文字は、収穫までに「八十八」もの手間をかけるからだといわれるように、農家さんが手塩にかけて育てたものです。 「米一粒でも残すな。食べ物を粗末にするな」と、昔から親は子を厳しく躾けてきました。そこに込められた、人や自然への感謝と食べ物を大切にするという心は、時代が変わっても忘れてはならないことです。 「お世話になった方への恩を忘れるな」 人の縁を大切に、出会いに感謝し、そのご恩に報いるためにも、五感はできうる限りお菓子づくりで社会に貢献したいと考えています。 わずか半券1枚で、美味しいコーヒーと超美味しいケーキを、とんでもなく素敵な空間の中、超素晴らしい接客の中で頂けるなんて...。お安くはありませんが、ケーキをお土産に購入して大満足で帰宅の道につくことができました。大阪・北浜、最高です♪ |