歌丸版「菊江の仏壇」では、かなり無理をして若旦那を庇っています。 つまり、理不尽な若旦那の行状を何とか許容範囲内に留めようと四苦八苦しています。 苦肉の策として、「若旦那の言い訳」を噺の中にそっと忍ばせています。 一方、米朝版「菊江仏壇」はカラッと乾いています。 若旦那を庇うような「言い訳」は、ほとんど出てきません。 噺の全編を通して、若旦那はお花への気遣いは微塵も見せません。 「よくもこんな事が出来るなぁ~、言えるなぁ~」と思える所業をこれでもかこれでもかと繰り広げます。 そして、迎えた最後の「おち」でスポットライトが当たるのは、好き勝手したい放題を繰り返した若旦那ではありません。 「おち」の主役は、仏壇に向かいお花の成仏を祈る大旦那と仏壇内に押し込められた芸者の菊江の二人です。 若旦那は、大旦那の後ろで不貞腐れて成り行きを眺める以外何もせず、一言も後悔の言葉を発していません。 つまり、若旦那は自身の理不尽な行状の報いを何も受けずに「菊江仏壇」は幕を下ろします。。 お花は耐えに耐えた結果ひっそりと亡くなり、実の父母は責める言葉を一言も残さずにヒッソリと辛い余生を送り消えていくのであります。 特にお花の父母は祝言の後、一環して「沈黙」を守り続けました。「耐えに耐えた沈黙」でした。 それだけに、辛い想いはヒシヒシと伝わってくるのです。 噺が進むに従って聴衆の「後味の悪さ」はドンドン強まり、救いや安らぎは全くなく、一見その場凌ぎとしか思えない「おち(見間違え)」で噺は終わります。 これで、われわれ聴衆の「後味の悪さ」は決定的になってしまいました。 そのおち(見間違え)を聞いて、聴衆は《取敢えず》ニヤっとはするでしょう。 しかし、あの米朝が大ネタ「菊江仏壇」を語り終え寄席が跳ねて、それぞれの家々に向かう聴衆の足取りは、さぞ重いことでしょう。 そんな時に脳裏を過ぎる想いは 「あんな極道息子に見初められたばっかりに・・・。せめて、若旦那が一度でも顔を見せてくれていたらなぁ~?」 「あの年寄り二人の気落ちした姿はそらぁ~見てられへんなぁ~。慰めの一言も掛けられへんなぁ~。」 この噺の「おち」は、ほとんどの聴衆が「大旦那が芸者の菊江をお花と見間違えた」と想像するようになっています。 大旦那「・・・・・お花・・・・・、どうぞ成仏しておくれ!消えておくれ!」 菊江「私も消えとうございます・・・。」 確かに芸者の菊江をお花と「見間違えた」と推測するのは仕方ないでしょう。 そして、菊江に「私【も】・・・」と返事を返されると、われわれ聴衆は、芸者の菊江に向かって「成仏してくれ!消えてくれ!」と懇願したと自動的に連想してしまうのです。 しかし、大旦那が実際に「仏壇の中で姿を見た」芸者の菊江と「・・・お花」と呼び掛けた相手そして「成仏してくれ!」と懇願した相手は同じだったのでしょうか? 次のような設定も成り立つ余地は残されているのです。 「仏壇の中にお花の霊が居た。」とすれば、この噺の趣きは一変してしまいます。 大旦那が、仏壇の扉を開ける。 《たしか、数珠は引出しの中に入れたはずやがなぁ・・・》【心の中の呟き】 大旦那、仏壇の中の芸者菊江を見つけビックリ仰天します。 《誰や?このオナゴは?何で仏壇にオナゴが居るのじゃ?》【心の中の呟き】 パニックに陥った大旦那の虚ろな視線が宙を舞った次の瞬間、 芸者菊江の後ろに亡霊らしき姿を見つけてしまい・・・。 《まだ、誰か居るがなぁ~?あれは・・・?まさか・・・?》 【心の中の呟き】 その亡霊が、お花の霊だと気付いて・・・。[大旦那は菊江をお花に見間違えたのではなく] 「お花・・・?!」 <声に出して> そこで、大旦那が懇願します。 「どうど成仏しておくれ!どうぞ消えておくれ!」<声に出して> 今までの「後味の悪い」ドタバタ劇の味わいは、激変してしまいます。 これまでのドタバタ劇が、これから始まる「お花の無念がジワジワと若旦那に降りかかってくる物語」の序章でしかなかった、とすれば・・・。 そのドンデン返しの威力は絶大であります。菊江仏壇は、怪談になるのです。 幸薄い新妻と理不尽な仕打ちで愛娘を失った老父母の無念を慰める物語になるのです。 そのための複線はひっそりと張られていました。 若旦那は好き勝手な事をしゃべりまくり我儘勝手放題している間中、お花とその父母からず~っと逃げ回っており、お花ともその父母とも一度も顔を合わせていません。 その結果、落語「菊江仏壇」では全編を通じて、お花自身も実の父母も伝聞でしか登場しません。 特にお花の実の父母は、その深~い想のこもった【肉 声】は一言も発していません。その【後ろ姿】すら現していません。 このように、落語「菊江仏壇」の中では、祝言(お花の苦しみの始まり)の後、お花とその父母は不自然なまでに人物描写を避けられています。 聴衆はやり場のない「後味の悪さ」を胸に抱きながら、何も言わないお花の「想いの吐露」を待ちに待つようになります。 【舞台】は出来上がりました。 そして満を持して、不自然なまでに人柄が朧気だったお花が、若旦那の前に《霊の姿を借りて突然現れた》のです。 若旦那、もう逃げる場所も隠れる場所も何処にもありません。 落語「菊江仏壇」の「最後の最後」という瞬間にぱッと姿を現し、さッと消えたのです。 以上、私の苦し紛れの米朝版「菊江仏壇」の捻くれた聴こえ方でございました。 あの人間国宝・桂米朝が「誰も演じ手がなくなってしもうた難し~い大ネタ」と評した上で、敢えて高座に架けた「菊江仏壇」。 別名「裏たちきれ」とも言われる大ネタです。 米朝版「菊江仏壇」は何遍聴いてもその「後味の悪さ」に合点がいきませんのです。しかし、何処か引っ掛かるとこがあるのですなぁ~! 約5~6年、心の中でブスブスと燻ぶっていたのです。 最近になって、歌丸版「菊江の仏壇」を聴いて米朝版と比較してみると米朝版の「潔さ」がより際立ってきました。。 「お客さんの反発を承知の上で若旦那に好き勝手をさせている」と気付きました。 米朝師匠は、確信犯です。 たぶん、米朝版「菊江仏壇」は米朝師匠独自の「省略の美学」?・!・?・。 という事で、思い切って米朝版「菊江仏壇」を取り上げてみました次第でございます。 最後に、どうでしょう?こんな幕引きは? 大旦那、数珠を取り出すために仏壇の扉を開けると、芸者菊江。 予期せぬ不意打ちに、ビックリ仰天! 一瞬、カサカサと木葉の擦れる音。我に返った大旦那、改めて仏壇の中を眺めると・・・。 オナゴの後ろに・・・、 何か見えたような・・・。 何かゆうたような・・・。 「.....da.....n.....na.....sa.....ma.....wa.....do.....chi.....ra.....ni.....i..... 」 何???・・・・・ 空耳???・・・・da..n..na..sa..ma..?・・・まさかっ・・?。 一瞬の物音が【呟き】に聞こえてしまった大旦那には、 若旦那を叱るだけの気力は既に残っていませんでした。 南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏 仏壇には、ぽつんと 菊江が ひとり・・・。 「菊江仏壇」は、客足が遠のく夏場の演目だそうです。 桂米朝師版「菊枝仏壇」 https://www.youtube.com/watch?v=wzsOCk7lh8c |