先月下旬、夫の会社に可愛らしい訪問者があった。バスチアン君はもうすぐ12歳になる少年だから、可愛らしいなどというと気分を害するかもしれないが、お母さんが小柄な日本人のせいか、見た目はちょっと幼い。 その訪問の一か月ほど前にお母さんのHさんが私に電話してきて、小学校のカリキュラムに「職場見学」というのがあるので、夫の会社の現場を見せてもらえないかという。 これは、社会人がどのように仕事をしているかを子供にその目で見させようという趣旨の教育プログラムである。通常、子供は父親の職場を見学、ときには母親の職場のこともある。親の働く現場であれば依頼がしやすく、すぐに話がつくからである。 もっともどの職場にも都合というものがあるから、いつでも受け入れOKとはいかず、そのために親が上司や同僚と相談して日程を決めるので、学級児童はいっせいに何月何日に大人の職場を見学するということにはならず、各自バラバラに出かける。予め教師にその日を申請しておけば、授業を抜けても問題ない。 さて、バスチアンの見学がお父さんの職場でなく夫の会社となった理由は、パパが自営業者で自宅で仕事をしているためだ。それも商売というのでなく、コンピュータを使って編集や製本の仕事をしている。ママもその助手を務めることがある。 だからバスチアンもその弟たちもパパ・ママの仕事ぶりは普段から見ており、改めて「職場見学」などしても意味がない。 Hさんと私の夫とは私たちが結婚する前からの知り合いで、当時留学生だった彼女が同棲相手Kさん(ドイツ人)と結婚したのは、今から15年前のことである。 それから数年して長男が、その2年後に次男のマィテアス君が、そして4年近く後に三男が生まれた。結婚したとき夫婦ともに30代半ばだったから末っ子ができた時にはもう若くなかったものの、体力があるのか活発な男の子たちとの「毎日が戦争みたいな」日常も楽しげだ。 Hさんと私は偶然にも同郷で、しかも彼女たちが今住んでいるのはわが家から40分ほどの町なので、私が結婚して以来ずっと付き合いが続いている。 バスチアン君は優秀な子で、それは見学時の積極的な姿勢でも見てとれた。 Hさんが言うには、今の小学校は近年州政府が打ちだした「新しい」教育制度を採用しているそうだが(小・中・高の教育制度は州政府に任されている)、教育現場でよくあるように、改革といわれるものは教師に都合のいい変化であることが多い。 つまり生徒の能力開発と言いつつ、実際にはいかに教師の負担を軽くするかに州の教育省・教育委員会の重点が置かれがちである。特に革新派が政権を取るとそうなる。 私たちが住むバーデンヴュルテンベルク(BW)州では以前はそうではなかった。ドイツの保守的な州の一つで、隣のバイエルンと並んで学童の成績が良いことで知られていた。 それが6年前の州選挙で緑の党と社会民主主義党(SPD)が政権を握って以来、「実験」やら「改革」が行われ、あっという間に教育レベルが低下し、昨年末のドイツ16州の学童比較ではなんと真ん中以下になってしまった。 これは明らかに連立政府で教育を担当したSPDのせいである。そのことは昨年初めの州選挙の前から既に批判されており、その結果SPDは野党に落ちた。 この場合は緑の党のせいではなかったが、最近の州選挙でSPDと緑の党が大敗北を喫したノートライン・ヴェストファーレン(NRW)州では、これまでのSPD主導の政権で緑の党が連立相手だったことから、この党の州代表が教育相だった。 移民が多いこのNRW州では昔から学童の平均成績は低いが、それにしても最近のひどさは目を覆うばかりで、そのことへの怒りもあって選挙民は緑の党を見放した。 一方BW州では、昨年春からSPDに代わって緑の党と連立を組んだ保守のCDUが目下学力向上に奮闘しているが、そう簡単にもとの制度に戻せないことは、バスチアンやマティアスが現方式のとばっちりを受けていることからも明らかである。 夫の会社でバスチアンが各職場の班長から説明を受けている間にHさんと話したところによると、彼の学校ではインクルージョン・クラスという方式が採られている。 インクルージョン。包括とか含有という意味で、クラスは6年前から始まった「多様性重視」の方針に基づき、出来る子も出来ない子も、ADHSや最近聞くアスペルガー何とかなどの症候群を持つ子も、知能レベルがかなり低い子も、全部一クラスで学ぶ。 要するに「ごたまぜ」クラスである。そこで子供たちは、自分とは全く異なるタイプの子と一緒に学習することで多様性や寛容や思いやりを学ぶ、ということらしいが・・・ 結果、もっとも割を喰らうのは成績優秀で勉強好きな子である。これは今世界を席巻する「弱者」優先の風潮の一環とも言え、成績不良の子を好待遇するということのようだ。 しかしこの成績不良児童も実際には割を食っており、教師は優等児にも、出来の悪い子にも、半ば障害を持つ子にも焦点を絞れず、クラスはまさに問題の坩堝となっている。 それでバスチアン君は、先生が面倒を見切れない「落ちこぼれ」の級友の教師役をすることがあるそうだ。でなければ、大半の時間は自習だという。 弟のマティアス君は天才肌で、飛び級してバスチアンのすぐ下のクラスにいる。これはクラスのレベルがあまりに低くて彼が退屈しきっているのを見た教師が、飛び級を勧めたからだという。 それでもやっぱり退屈しているのだが、バスチアンと同じクラスになってお兄ちゃんの成績を上回ると兄の面子がつぶれると心配したHさんは、再度の飛び級の勧めを断っている。 二人とも数年後には大学入学のための必須過程であるギムナジウムに通わせたいが、今の「ごたまぜ」クラスでのんびり勉強していたのではギムナジウムに入れない恐れがあり、それで何としてもクラスのトップ、それも断トツのトップの位置を守らねばならないそうだ。 バスチアンが見学を終えて帰るとき、夫が彼に「何か報告書のようなものを提出するのかね」と訊くと、そんな宿題はないという。生徒に何かを強制的に書かせるなどの負担を課すことなく、自由に見学させたい、というのが教師の言い分だそうだ。 よういうわ。報告書など出させると、それを読んで評価しコメントせねばならない。負担を厭うのは、実際は教師の方なのだ。 (スウェーデンでは小学校では成績簿と言われるようなものはなく、これも自由に学ばせるためだそうだが、むしろ教員組合からの「労働軽減」要求のせいだろう。そして近年のスウェーデンの学童の成績は、OECD28か国の比較でどん尻である。) バスチアンとマティアスは学力優秀であるために「ごたまぜ」クラスで苦労しているが、「問題児」であるために悲惨な目にあった子も身近にいる。 バスチアンの職場見学の面倒を見てくれた班長の一人Nさんには二人の男の子がいる。上が7歳で下が2歳。 最近夫が空き家を買い取って改築した社宅に引っ越してきたので、近くの住人になった。ドイツでは6歳で小学入学なのでリヒャルトは2年生、2歳児のコンラートは幼稚園に通っている。ならばNさんの奥さんは働いているのかと思ったら、専業主婦である。ドイツでは珍しい。 どうして働かないのかというと、長男のリヒャルトが少し遠い町の私立校に通っており、その送り迎えだけでかなりの時間を取られるからだという。私立校というのはドイツでは専業主婦よりもさらに珍しい。私はそういうケースを初めて聞いた。 どういうことかと訊けば、リヒャルトはADHSか何か先天的な問題を抱えた子供なのだそうだ(外見は全く普通だが)。それが例の「ごたまぜ」クラスに入って、教師からは迷惑がられるわ、同級生からはいじめられるわ、ついに登校拒否になってしまった。 それで、そういう子を受け入れる私立学校を探したのだという。私立といっても月2万5千円程度の授業料で、従業員の子女の幼稚園料金を企業が負担している夫の会社では、小学生には稀なケースとしてリヒャルトの授業料も払っている。 幼稚園料金支払い等は別に企業の義務ではないけれど、ドイツではそういう会社は特に珍しくもない。 夫に言わせると、社員自身に払わせて会社の利益を月数十万円増やしたところでその半分は税務署にもって行かれるから、ショイブレ爺さん(ドイツの財務大臣)を喜ばせるくらいなら社員に還元する方が何倍もマシなんだそうだ。 しかし、それにしても、その制度のゆえに公立学校では面倒見切れない児童を事実上差別して、私立校に追いやるというこの州の現在の初等教育は、間違っているというより狂っていると私は思う。 |