豊後・日田街道 「土地と植物の賊」 【ワイド版】司馬遼太郎 街道をゆく 8.熊野・古座街道、種子島みち、ほか
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昭和三十九年十月三日の「別府阿蘇道路」の開通を迎えるのだが、ちょどそのとき、あの日本人の経済観から倫理観まで、いわばあらゆる価値観を狂わせた土地ブームという変態の季節が始まっていた。 「大分市辺りから、土地ブローカーが、ほんとうに殺到しましたなあ」 (中略) 土地というのは本来、すくなくとも思想としては国民の共有財産であるべきもので、いかに私権が憲法によって保護されているにせよ、土地そのものを転がして利益を求め、それによって国民経済に害悪を与えたり、無用に山林をつぶし、猥雑に建造物を建てちらして、この国土以外に住みようのない人々の経済生活を破壊したり、あるいは不快感を与えたりすることまでは、憲法は擁護するはずがないように思える。昭和三十年代から四十年代にかけての土地に関する異常事態は、後世、歴史に書かれて当然な象徴性をもっているが、日本史規模では総理大臣の名や大商社の社名も入るであろうし、郷土史規模では、長者原で起こった事態は当然、記録されるに値する。 (中略) ところが、この雄大でゆるやかな斜面は、もともと馬酔木が主役ではなくミヤマキリシマが大群生していたそうで、休憩所の人にきくと、花の季節には斜面全体が燃えるように華やいだという。しかし、今は一株もない。 「みな盗まれたんです」 と、草の上に立ってた運転手が不意に言った。 斜面の登り口の草の中に、九重町の教育委員会が、白ペンキ塗りの小さな立札を立てているのである。そこに短い文章が書かれている。
ここはミヤマキリシマの群生地でありました。
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