先月初めから夫の会社に(再)研修に来ている日本人のK君、少し系統的に冶金について学ぶ必要があるというので、6月の最終の週に北のニーダーザクセン州(州都ハノーファー)にあるクラウスタール工科大学で5日間集中講義を受けることになり、この婆さんは何の因果かそれを通訳する役目を仰せつかって、彼に同行した。 クラウスタール工科大学は日本では知名度ゼロだと思うが、ここには近年ドイツでも数少なくなった材料力学・金属学を学ぶ科があり、夫は自分の娘・息子もそこで学んだことから四半世紀近くここを支援している。 今の50歳前後の女性教授は彼に取って二代目だが、こんなマイナーで男性的な分野に果敢に挑むだけあって、非常な努力家で熱血漢(女は漢っていわないが)だ。 昨年K君が来独した時、夫は彼の勤勉さに惚れ込みできるだけ多くのことを学ばせたいと、10月末にクラウスタール工科大で行われ夫自身も講演者の一人だったコロキウムに連れて行った。 K君の専門は機械工学なので、鋳物、特に鋳鉄についてちゃんとした知識を与える必要があると信じた夫は、そのとき、K君再来独の折には個人的に講義をしてくれるよう女性教授に頼んだらしい。 で、6月末、アジアからの一連の来客が去った後、これからK君を連れて工科大に行き、クラウスタールの町に置いてくるという。 「ええーっ、だってK君、ドイツ語はもちろん英語もろくにできないじゃないの!」と私が仰天すると、「だから君が通訳として一緒に行くんだよ」と、さらに仰天すべきことを当たり前のことのように言う。 こうなるとどう抗っても無駄なので、私も覚悟を決めて従い、夫が大学で教授やその助手たちに挨拶して一人列車で(珍しい!)帰ったあと、K君とこの田舎町に残ることになった。 さて、このクラウスタールという町、その名を知っている人がいたら賞金をあげたいくらい小さくて目立たぬ地だが、この春に新しい設備の件で夫に付いてここに来たとき大学の人達と一緒に食事した古いレストランで、壁に掛かっているロベルト・コッホの写真と大きなアフリカ地図に気づき、なぜそんなものがここに、と尋ねると、クラウスタールはコッホの出身地だという。 アフリカの地図は、細菌学者であった彼が同地の感染症を調査するために訪ね歩いたその足跡を示したものだった。 私はこの事実に大きな興味を覚えたので、(再)来独早々のK君にも、またそのあとにやってきた彼の義弟を含む一行にもこの話をしたが、誰もコッホのことなど知らない。 さらにその前に企業経営者一家の訪問があったが、そこの後継者である48歳の男性も、聞いたことがないという。(さすがにその両親世代は知っていた。) 私の小学校の教科書には結核菌を発見した偉人として彼が紹介されており、今考えると自分が最初にその名を知ったドイツ人だったことから、学校教育もずいぶん変わったものだなあ、と痛感した。 K君に縁がある36歳から42歳までの上記の若手日本人グループは、「僕たちの時代には、もう結核などありませんでしたからねえ」などと言う。 それで私が「でも北里柴三郎という医学者は知っているでしょ」と訊くと、全員「そりゃ、もちろん知っていますよ。」 「ロベルト・コッホはその北里博士の先生ですよ」と言ったら、「へええ~」とその時初めてコッホの偉さが分かった風だった。 コッホから北里柴三郎の話になって思い出したことがある。北里博士はドイツからの帰国後、母校の東大を追われるような形で去るが、そのときに福沢諭吉の援助を得て私立伝染病研究所を設立し、初代所長を務めた。これが後に妙な経緯から国に寄付されて、東大付属の国立伝染病研究所となる。 私の親しい友人の父上が、70年頃に退官されるまでこの国立伝染病研究所で病理学者として研究に従事しておられた。 その友人と私が知り合ったきっかけは彼女がフランス語の通訳をしていたためだったが、それも父上のN博士が若い頃にフランスのパストゥール研究所に留学していたことと無関係ではない。 その彼女、知り合って10年ほどのちに宗旨替えし、阪大の大学院で日本語学を修めた。お父上の方は、地方の研究所に乞われて東京を引き払っておられた。 彼女が関西から上京するたびに利用しているのが白金台の都ホテル(当時)だったので、どうしてそこを宿にするのか尋ねると、「父親が勤めていた伝染病研究所が白金台にあって、よくそこに遊びに行っていたのでそのあたりの地理には詳しく、また懐かしい思い出があるの」ということだった。 するとそのとき一緒に食事していたスペイン語通訳の友人が、「へえっ!」とすっ頓狂な声を挙げた。彼女が言うには、国家公務員だった父上の官舎が白金台にあったため、そのI氏がアルゼンチンに赴任するまでの幼少時代をそこで過ごしたという。 もちろん、その頃「伝研」と呼ばれていた国立伝染病研究所のこともツーカーだった。 同い年の二人がよく遊んだという公園の名などが出て、「じゃ、私たち、背中合わせに遊んでたこともあるでしょうね」「道で何度かすれ違ったかもね」などと盛り上がった。 東京生まれの少女たちの白金台(名実ともにキラキラの土地)での「ニアミス事件」は、遠い四国の田舎で生まれ育った私にはちょっぴり羨ましかった。 さて、N医学博士のお嬢さんも日本語学の博士になり大学で教え始めたが、21世紀になって間もないころ電話で話していたら、最近の大学は訳の分からない学部を設置したり、妙な名前に変えたりしているとえらくご立腹である。 一番多いのが「国際○○大学/国際××学部」、総合なんちゃらも大流行だとか。さらにひどいのは、未来ナントカという名称。 教える中身がまるで不明。未来ナントカって何を勉強するのよ。そもそも、「国際」をつける必要なんか全くないのに、なんでも大きく出ればいいと思っている。そのうち国際英文科とか、総合フランス文学部なんてのもできるんじゃないか、と呆れ嘆いていた。 そのすぐあとで東京都立大が消え、代わって首都大学東京などという、これも仰々しい響きの名称の大学が誕生。 少子化で大学生の数も減り、大学間の競争も熾烈になって行く現在、こういう名称の方が学生が集まると思っているのかもしれないけど、そんな名前に惹かれて来るような若者に大したことは期待できない、という点では私たちの意見は一致した。 その時に彼女が持ちだしたのが、くだんの「伝研」である。 ここの名称が「東京大学医科学研究所」に変わったのは60年代半ばだというが、そのときN医学博士は変更に強硬に反対した。 そもそも、上記のような経緯で北里柴三郎が伝染病研究のために設立した機関であり、さらに辿れば「細菌学の父」と呼ばれたロベルト・コッホにまで行きつく。 それが「医科学研究所」では、何を目的とするのかさっぱり分からない。こんな曖昧な名称は無意味だ、と自宅に帰ってもひどく憤っておられたという。 実は最近、大学のこの「大風呂敷好き」というか「キラキラ名称」について、私にとって身近な冶金学の分野で嘆息させられる一件があった。 クラウスタール工科大と並んで、金属学や材料力学の分野でドイツでよく知られているのは、東のザクセン州にあるフライベルク工科大である(正式名称はその歴史もあってえらく長いので以下こう呼ぶ)。 この大学については、私はドイツに来る前から知っていたが、それはかの博物学者アレキサンダー・フォン・フンボルトがここで鉱山学を学んだということを昔何かで読んだためである。 この大学は、銀などの地下資源の豊かなこの地方にザクセン王国の君主が設立したベルクアカデミー(鉱山専門学校)を前身とする。格から言えばクラウスタール工科大よりも上である。 夫の会社で品質管理を担当しているミッシェル君も、それからK君を指導してくれたクラウスタールの女性教授も、ここで冶金学を学んでいる。ミッシェル君の方は東西ドイツ統一後に入学・卒業したが、女性教授の方はまだ東独の時代にここで学生時代を過ごし、その夫君も同様だった。 このフライベルク工大は秋田大学と縁があること、つまり秋田大学となるまでの秋田鉱山専門学校がフライベルク鉱山専門学校を模範として設立されたということを何かで読んだことがあるので、K君の集中講義から帰ってのち、私はK君がわざわざまたドイツまで来なくても国内留学という手もあると、この秋田大の当該学部について調べてみた。 そして驚き、呆れかえった。 その名称は「秋田大学国際資源学部」となっている。またしても「国際」!なんでこんな名称にする必要があるのだ。資源学部で十分ではないか。国内の資源に集中するにせよ、国外のそれにも目を向けるにせよ、それは学生の興味と将来の展望次第で、国際か非国際かは関係ない。 そもそも、鉱山開発の必要性から生まれた冶金とか金属学とか材料科学というのは、もっとも「地に着いた」、それだけに地道で現実的で、ごまかしや張ったりとは全く無縁の分野である。 そんな立派な学問分野を、国際だの未来だの総合だの、中身の薄い今風の言葉でごてごて飾り立ててどうする! 私は早く今の大学間の競争に勝負がついて、大風呂敷大学/学部は姿を消してほしいものだと願っている。 写真1.マンツーマンの講義を引き受けて下さった教授。英語・ドイツ語混合の授業でした。 写真2.試験片を測定中のK君 |