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2017年08月24日(木) 
先日のろれちゃんのブログに触発されて、これまで自分とは無縁だと思っていた「源氏物語」なるものについて、ちょっとは齧っておこうとほんの少しだけ調べてみた。

実は数年前に、今は故人となった昔の職場の大上司からの年賀状に「目下サイデッカーの源氏物語・英訳版を読んでいます」とあって、ええ~っ、いくらかつての秀才エリートとはいえあんな堅物が、と驚いて、どんな内容なのかと興味が湧いたこともある。

そもそも、高校の古典の授業で、イズレノオホントキニカ ニョウボコウイアマタハベリケルナカニという出だしを読んだ(読まされた)ときから、あ、こりゃだめだ、と拒否反応だった。

それに比べると「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」の方が遥かに高尚に思えたものだ。

といっても源氏物語については完全無知というほどでもなく、いろんな作家、特に女流作家のエッセイなどに引用が時々出てくるし、今回ろれちゃんが読んだ現代語訳・源氏物語の訳者である田辺聖子の古典に関する(軽めの)著作で読んでいたので、男らの雨夜の品定めとか末摘花の容貌、花散る里の人がらなどは、一通り知っていた。

で、このたびネットを駆使して(というほどでもないが)あれこれ覗いてみて、やっぱりダメだわ、こりゃ、という結論に達した。

何しろ登場人物が多すぎる。一人一人名前を覚えるなんて到底不可能。しかも結婚や昇進で身分が変わると呼称も変わるので、とてもストーリーの流れについていけない。そばに登場人物のリストでも備えておかないと、誰が誰だか、何が何だか、分からなくなる。

ではあるが、光源氏も、彼に惑わされ翻弄される数多くの女たちも、今はやりの「ジェンダー・スタディ」の一環として読めば、あるいは当時の社会の研究資料とすれば、なかなか面白いかもしれない。

個人的には、私も女だから、ろれちゃん言うところの「毎日を嫉妬に狂う精神的虐待」を受ける紫の上やらナントカ女御、カンタラ御息所など、哀れすぎて見ていられない。

次々と現れる若い愛人や、源氏の新たな恋愛関係にハラハラ、イライラの日々を送る女たち。

男の方も源氏の不義の子とか、妻が産んだ親戚の青年の子とか、娘婿を嫁にとられた大臣とか、恋愛地獄の沙汰に生きた心地のない人たちがいっぱい。

何なんだ、これは、と呆れながら読んでいて、昔読んだ芥川龍之介の恋愛に関する格言(アフォリズムというべきか)を思い出した。彼によれば、要するに、恋の病は暇人のかかるものだというのである。

それでこれもネットを調べたら、龍之介の「侏儒の言葉」の中に、次のような文章があった。

「我我を恋愛から救ふものは理性よりも寧ろ多忙である。恋愛も亦完全に行はれる為には何よりも時間を持たなければならぬ。ウエルテル、ロミオ、トリスタン――古来の恋人を考へて見ても、彼等は皆閑人(ひまじん)ばかりである。」

いやあ、仰せの通り。

平安時代の貴族なんて、出世競争があると言ってもそのために実を削るほどお勉強することもなかったろうし(夕霧が受けた試験なんてどんなものだろう)、女たちに至っては毎日どんな暮らしぶりだったのか。

朝起きて朝食の支度をする必要があるでなし、掃除も洗濯も下女がやるし(十二単なんかどうやって洗った?)、子育ては乳母任せ。

お茶するったって、飲み物も菓子類もろくなものがなくて、品ぞろえにあれこれ心を配るということも稀だったろう。

そもそも、源氏物語にお衣装の話、着るものをどうするかという騒ぎはしょっちゅう出てくるが、食べ物の話題はないような気がする。ちゃんと読んでないから分からないけど、ろれちゃん、どうですか。

で、こんだけ暇だと、男と女のことしか考えること・やることはないですよね、当然。

だから、嫉妬や猜疑や焼きもちから自由になりたければ、結局は忙しくするしかない。もっとも平安時代に忙しくすると言っても、歌を作るか書画の腕を上げるか、琴や笛の練習に時間を使う程度で、身分の高い人が庭いじりもできないし、台所に立つわけにもいかない。

一つ面白いと思ったのは、源氏物語の女たちの多くが自分の身過ぎ世過ぎ、つまり経済的な状況に不安を抱き、内心びくびくしながら暮らしていることだ。

これは天皇の正妻や中宮といえども変わらず、崩御したり退位なんかされたりで夫の後ろ盾を失えば、きれいなおべべも誂えらることは難しくなり、侍女の数も減らされる。

そんなんで最後は鬱になり、解決の常套手段は出家して尼になること。幸い、と言ってはなんだが、当時は寿命も短かったから尼寺が満員で入所待ちということもなかったろう。

くだらない雑感をあれこれ書いてきたが、要するに言いたいのは、みんな適当に忙しくしてしっかり頭を使って、自分の趣味・興味を持ち、くだらないことに心を悩ませる時間を減らしましょう、ってことです。

そして女は経済的にも自立して、夫の心が若い女に奪われても日常の暮らしにはちっとも困らないようにしておかねば。

思えば、私たちよかったねえ、今の時代に生まれて、職業や趣味や良い友人がもてて。

それと、源氏物語を垣間見て深く印象づけられたのは、日本語の美しさ。帚木、初音、夕顔、胡蝶、篝火、御法、雲隠・・・各章のタイトルだけでもこんなに素敵な言葉が並んでいる。

これはまあ、暇にあかせての超才女の能力発揮で、千年余りの昔にこういう女人を生んだ日本、やっぱり捨てたものじゃない。

実を言うと私はやっぱり、紫式部がケチョンケチョンにけなした清少納言の方にシンパシーがあるのですが。

閲覧数440 カテゴリ日記 コメント8 投稿日時2017/08/24 18:05
公開範囲外部公開
コメント(8)
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  • 2017/08/24 18:54
    私が学生のころは女子は文系が人気でした。英文・国文花盛り。
    しかしいまや純粋の文学は廃れてしまいました。
    文学では就職には役に立たないし、食べていけません。
    女子大生き残りは一生モノの資格・看護学部にシフトしていて驚かされます。

    いまどきの女の子に人気なのは「ちはやぶる」というかるた部が舞台のまんがです。どっぷり平安王朝文化にひたるというよりはお手軽なんでしょうね。わたしは見ちゃおれん、って思いましたが、妹は好きな歌が出てくると楽しいそうです。

    歌でも京都の名所でもいまやスマホですぐに調べられます。
    いまどきの若者どもに日本の良さがわかってたまるか・・・・なんて思いません。鑑賞の仕方まで懇切丁寧に書かれているサイトまであるのだから。こんな時代に学校の先生は大変なんだろうなあ。
    「せんせーそこちがいます。これ見てください。」
    (とスマホをさしだされたりして)

    鴎外も漱石ももはや古典。いまの高校の教科書を見てみたい気分です。

    先日、真夜中に映画「怪談」をテレビで見ていました。
    『耳なしの芳一』などすばらしかったです。
    「平家物語」、滅びの美学とでもいうのでしょうか。いいなあ。
    次項有
  • 2017/08/24 21:26
    zosanさん
    文学と聞いただけで、足は逃げ腰です。 
    次項有
  • 2017/08/24 21:37
    鉛筆ベッガさん
    > zosanさん
    文学 - 学という字が入っているからちょっと怯むのかもしれませんが、zosanが毎日書いておられるブログも文だから、結構な文(学)愛好者とお見受けします。
    次項有
  • 2017/08/24 21:31
    鉛筆ベッガさん
    > くちべにがいさん

    文学では就職には役に立たない。その通りでしょうが、私の若い頃は女子の学部といえば家政学か文学くらいのもので、経済や法律を専攻する人はまれでした。大学で良い成績をおさめても、採用してくれる会社や役所は少なかった。一方で、文学部卒なら、まあ寿退社まで使ってやろう、という企業は結構ありました。

    私の若い頃っていうとたかだか50年くらい前の話。こう考えると、当時の女性観や女性の立場は、平安時代とそんなに変わっていなかったのかもいれません。

    1960年代と1000年頃の差より、2015年と1960年との差の方が大きい!驚きですが、これはひとつには技術革新による社会変化のせいでしょう。IT社会、スマホ文化。さらにはAI。

    インターネットでお手軽になんでも調べられるようになって、昔なら百科事典を片っ端から調べたり、図書館に通ったりしたその手間が大幅に省けるようになり、うら覚えの事項もキーワードを入れて確認できる。

    でも、これは料理にたとえていえば、異国の食品や珍しい限定品、季節の旬の品、なんでも手に入るようになったということで、材料は実に豊富になっていますが、問題はそれを用いる人の手腕です。

    中には生で食べられる素材があるにしても、入手した食材をいかにうまく調理するか、どう組み合わせるか、これは自分で腕を磨くほかありません。学校の先生が指導すべきは、そこのところなのでしょう。
    次項有
  • 2017/08/25 07:27
     「源氏物語」、まともに読んだことはありませんが、時代の制約の中で、エリート社会の女たちが、喜びや悲しみ、怒り…精いっぱい生きる姿に愛おしさを感じます。
     作者が女性のせいか、「女」の心情が生き生きと描かれている。そこが、主たる読者である女御や女房たちの共感をよんだのではないでしょうか。
     その意味では、「光源氏」は、「女」を浮き彫りにするための単なる当て馬でしかない。なんか、血が通っていない印象です。

     「見合い」世代のせいか、やはり「恋愛」に憧れます。
     この世には、「男」と「女」がいる。その違いを楽しみたい。

     「恋」を避けるためにわざわざ忙しがる必要がないわが身が、ちょっと哀しいです。;^^
    次項有
  • 2017/08/25 17:31
    鉛筆ベッガさん
    > 南総の寅次郎さん
    おっしゃる通りですね、紫式部は女性の描写が非常にきめこまかい(らしい)。一方で男の心理にも精通している。光源氏や夕霧や中将などの「ふがいなさ」などは、さもありなんという感じ。

    実はこれ、私の勝手な推測なんですが、紫式部って同性愛者の傾向があったのではないでしょうか。

    これは差別発言ではありませんよ。もう20年余り昔、だれかが「クリエイティブな仕事をしている作家・芸術家の場合、男なら女性の要素、女なら男性の資質や視点を持つ人が成功している」と言っていて、なるほど、思い当るなあ、でした。

    恋を避けるための多忙は無用でも、「君子危うきに近寄らず」は心がけていらっしゃるのでは?奥さまのためにも。
    次項有
  • 2017/08/25 20:20
    源氏物語からいろいろと意見が活発で面白いですね、たしかに物語の中でもてなしの場面もあったけど、雰囲気を伝えても具体的にどんな素材のどんな料理とは一切説明は出てきませんでした。

    貴族は本当に暇だから、花鳥風月の歌を作ったり、恋をしたり何かに没頭しない時間を持て余すんだろうなと思いますね。

    美しい着物を着て、ボーっとしてるだけじゃ間が持てないというか。
    庶民は食べていくために働かないといけないし、忙しくてそういう芸術とかやってる間もないし。

    でもやっぱり、自分で自分の生活を支える仕事を持つということが自分の幸せを見つける土台だと思います。
    でないと、対等な恋愛も出来ないですね。精神の自由こそ一番の幸せなのでは?と思うのですが。

    ただ、今となっては恋愛の対象となる人にも巡り合わないので、(というか、始めいいなと思っても、時間が経つと裏の顔にがっかりしたりして異性にトキめくということは無くなって寂しいことです。
    (そんなことを考える事自体、夫を持つ身では怪しからんと怒られそうですが。

    最近は表の顔だけ見て勝手ににときめくのもいいかな~?美しき誤解でも錯覚でもトキめいたもの勝ちと言うか、意識的にそういう状態に持っていくのもワクワクできて人生を楽しめるかも?なんて。。

    いったいあんたはいくつなの!と怒鳴られそうなので、この辺で。。
    今は人ではなくダンスにときめいております、はい。
    次項有
  • 2017/08/27 23:27
    鉛筆ベッガさん
    > ろれちゃんさん
    美しき誤解でもトキめいた方が勝ち。うん、それも一つの見解ですね。自分がそれで楽しければ、そしてそのためにせっかく築いた家庭を壊すようなことがなければ、誰からも批判はされないでしょう。

    精神の自立とか自由などと格好いいことを言ってみても、経済的に自立していないと無理。そういう意味で、今の女性は私たちの母親や祖母の世代と比べて幸せだと思います。

    私がどうしても往時の貴族やお姫様に感情移入できないのは、自分がその時代に生まれていたら、きっとせいぜい下女か野良仕事に明け暮れる百姓娘だったろうと思うから。機織り女くらいなら、まだ幸運だなあ、とか。

    だから、王子様との出会いを夢見たことなんて本当にないんです。

    ダンスに夢中。昔なら舞姫になっていた?今も昔も、羨ましいかも。
    次項有
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