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2017年10月16日(月) 

今年のノーベル文学賞は前評判の高かった村上春樹には行かなかった代わり、日本生まれの英国人作家カズオ・イシグロへの授与が決まったことで、日本でも盛り上がったようだ。

この人の文壇デビューは1980年代初めだが、1989年に出版された「日の名残り」が英国版芥川賞ともいえるブッカ―賞を受賞したことで、当時の日本の新聞でも大きく取り上げられた。

それですぐにそこの作品を読んでイシグロへの興味が増したので、続いて「浮世の画家」も読んだのだが、こちらはどうもしっくりせず、外国人の目に映る異国的な日本という印象が強過ぎ、「日の名残り」で感服させられた拡張高い文体や英国らしさが見当たらなかったため、その後この作家のことはほとんど忘れていた。

出版から3、4年経って「日の名残り」がアンソニー・ホプキンス主演で映画化されたことは知っていた。しかし監督の名を聞いて私はこの映画を見ないことに決めた。

ジェイムス・アイヴォリーは80年代から90年代にかけて日本でも大きな人気を誇った映画監督で、私の知るところでは特に女性のインテリ層にファンが多かった。

というのも彼は古典的な英国小説を好んで映画化していたからで、数十年前に大学の英文科で「名作」として教科書的にとりあげられ、したがって私の年輩の女性には極めて馴染みの深いE・M・フォースターの作品が多かったからである。

それでそういうインテリの友人に誘われて私はいくつかを観に映画館に足を運んだのだが、撮影技術も高度でどの場面も美しく、映画作品としては多分よくできているのだろうと感じる一方で、内容にはかなりがっかりした。

それでも「眺めのよい部屋」は私にとってさほど思い入れのない小説だったので、その原作と映画の乖離とはさほど気になるものではなかったが、続いて観た二作品においてはフォースターの真の意図が無視されているように思われた。

同性愛者を主人公にした「モーリス」では、私が最もシンボリックと捉え、本を読みながら「これを映像にしたらどんなに神秘的だろう」と想像していた場面が完全に無視されていて、アイヴォリー監督の感性に首をかしげたほどだ。

エマ・トンプソンがアカデミー主演女優賞を受賞した「ハワーズエンド」では、その失望はさらに深かった。(作品賞にノミネートされながら受賞に至らなかったのは、審査員がまともだったことを示している。)

この「ハワーズエンド」のキーワードは、冒頭(と言っていいかどうか、とにかく本を開いて最初に目にするページ)にあるように“Only connect(ただ繋がりさえすれば)”であり、それを具体的に表現するための出来事が全体に散りばめられている。

けれども映画では、ハワーズエンドの屋敷の美しさや、労働階級出身の次女の恋人がさまよう朝の森の夢・幻のようなシーンなど、審美的にきめ細かく描写されている一方で、主題のモチーフに関連した場面はほとんどが切り捨てられていた。

それで、「ハワーズエンド」に続いて「日の名残り」が同じ監督により映画化されたと聞いたとき、私にとって最もインパクトが強かった箇所は、無視するには余りにも長いのでそれはない一方で、おそらく無残にも単純化されるなどして改竄が甚だしいことだろう、と恐れたのである。

そのプロローグにあるように、物語は1956年に執事のスティーヴンスが往時を回想するところから始まる。彼が敬慕の念をもって仕えたダーリントン卿はもはやこの世の人ではなく、ダーリントン・ホールの主は別の人物になっている。

それからDay One-Evening, Day Two-Morning, Day Two-Afternoonと続きDay Six -Eveningで終わる。

読後28年経っても私の記憶に残る逸話はこのDay Two –Morningの章で展開され、私の手持ちの版(この小説を私はドイツに持っていかなかったので、日本の自宅の本棚を探したらすぐ見つかった)では40ページにわたって綴られている。

それは1923年の出来事である。1923年といえば二つの世界大戦に挟まれた時代で、最初の大戦に敗北したドイツは英・仏を始めとする戦勝国から厖大な賠償金支払いを命じられ、貧困と屈辱に押しつぶされそうになっていた。

この状況を深く憂えたダーリントン卿は、ドイツの軍人ブレマンとの友情もあって、なんとかドイツに課されたヴェルサイユ条約の過酷な条件を緩和しようと奔走する。

ブレマン氏はダーリントン・ホールを幾度か訪れるが、そのつど衰弱ぶりが目立つようになり服装もみすぼらしくなっていく。うつろなその眼差しは病む精神をうかがわせ、ついに彼は自ら命をたつ。

ダーリントン卿は言う。「私が戦ったのは平和のためで、ゲルマン民族への復讐のためではなかった。」しかし英国、特にフランスは、ドイツの敗北をまさに復讐のための好機と捉えているかのようであった。

(こうしたドイツへの激しい憎悪は第二次大戦後にもむき出しにされ、かのチャーチル卿などは世界地図からドイツという国を抹消しようと言ったという。)

敗れた敵へのそのような仕打ちは不名誉な行為であり英国の伝統に反するとして、ダーリントン卿はドイツを救おうと活動を開始し、世界の著名人に働きかける。

そのしめくくりとして1923年のある時期、欧州各国および米国から政治家、外交官、学者などがダーリントン・ホールに招待され、そこで3日間にわたって非公式な会議が開催される。

だがダーリントン卿の懸命の努力もスティーヴンスの願いも実を結ばずに終わったことは、第二次世界大戦へと続くその後の欧州状勢から明らかである。

私は初めてこの箇所を読んだとき、カズオ・イシグロという作家が時代の波に乗って世を泳ぐのでなく自身の見識を守る人物であることを好もしく思った。

第二次世界大戦から72年を経た今の世でも、特にインテリ層では、ドイツを弾劾しこの国を厄の権化のように悪しざまに罵ることが時流となっている。ドイツをどれほど非難しても、それが不当と批判されることは、まずない。

確かに、ドイツがユダヤ人の殲滅を図って犯した数多くの蛮行は、世界の歴史においてもほとんど類のないものであった。

また、英・仏がドイツに向けた憎悪は一方的なものではなく、もしドイツが勝利を収めていたら、これらの旧敵国に対して同様の過酷さで臨んだであろう。だから私はその点に関してドイツの肩を持つつもりはない。

しかし一旦戦いが終わり、国民が身を削って償いをし、敗れた国の義務を数十年にわたって遂行してもなお世界がその敗者を責め続けることは、ダーリントン卿も言うように「正義」の名に値しない。

そういう見方をイシグロ氏が「日の名残り」の登場人物を通じて示したことに、私は驚いたのだった。

この作品が発表された28年前には、人々の戦争の記憶がまだ新しいこともあり、ナチという怪物を生んだドイツへの嫌悪は21世紀の今よりもはるかに熾烈だったはずだ。

イシグロ氏にドイツをめぐるこの事件を書かせたのは、同じく敗戦国である日本の、原爆の洗礼を受けた長崎という地で生を受けた背景の所以だろうか。

この10月6日、カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞というニュースを聞いて真っ先に私が思ったのは、ドイツはこれにどんな応を示すだろう、という点だった。

いくつかの新聞記事を読み、ドイツばかりでなくスイスやフランスの新聞にも目を通した。

スウェーデンでの決定の直後は、ほとんどの記事がイシグロ氏の履歴の紹介で、日本で生まれたこと、父親の仕事の関係で5歳で英国に渡りすぐに母国に戻るはずが、少年期・思春期・青年期を英国で過ごしついには帰化するに至ったことなど、内容はどの新聞でも当然ながら同じであった。

書風については、「日本人の精巧さと英国人の明快さとの組合わせ」とか、「ジェイン・オースティンとカフカを合わせて2で割ったらイシグロになる」などという評もあった。

はっとさせられたのは、Frankfurter Allgemeine Zeitung(FAZ)の記事である。

同紙は、「日の名残り」に用いられている語りの危うげな調子が欧州で固く信じられていた歴史観と対極にあることを指摘した上で、これが1989年というUmbruchjahr(大変革の年)に出現したことがその効果を高めていると述べている。

それで初めて私は、この年に欧州、特にドイツが大きな変換点に立っていたことに気づいた。同年の夏、東独を脱出しハンガリー経由で西ドイツに行こうとする人々がハンガリーに集まり、それがピクニックと呼ばれた。

社会主義との決別を願うハンガリー政府は、この集りを制止するどころか、9月には国境をすべて開いて人々の移動を助ける。このニュースを私は秋のロンドンで聞いたのだった。

FAZはまた、イシグロ氏の作品のドイツ語翻訳がいつも非常に迅速に出版されることについて、(英語に堪能な人の多い)ドイツで人々が原語版に手を伸ばす前にドイツ語版を提供するためだと言っているが、これはドイツにおけるカズオ・イシグロの人気を示している。

日本人の私が、まさか10年あまり後にドイツに住むことになろうとは思いもよらぬままに、ドイツという国を庇う人物を描いてくれたことを嬉しく思ったとしたら、当のドイツ人たちが覚えた感謝の念はどれほどであったろう。

閲覧数1,051 カテゴリ日記 コメント16 投稿日時2017/10/16 23:06
公開範囲外部公開
コメント(16)
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  • 2017/10/17 20:05
    > ベッガさん

     私の見方は甘かったかもしれません。

     「民主主義は過ぎ去った時代のものだ。普通選挙にいつまでもこだわっていられるほど、いまの世界は単純な場所ではない。烏合の衆が話し合って何になる。…ドイツとイタリアを見よ。強い指導者に行動の機会を与えれば、どれほどのことができるかをな。家が火事になったらどうする?家族全員を居間に集めて、どの逃げ道が最適か一時間も討論するか?」(285頁)

     ダーリントン卿は執事のスティーブンスにこう言ったのです。
     多くの国民に世界情勢などわかるはずはない。
     だからこそ、強い指導者と限られた人物が、世界情勢を担うべきである、と。
    次項有
  • 2017/10/18 09:23
    鉛筆ベッガさん
    > 南総の寅次郎さん


    権力を握るまでは、国民のため、国家のためと言っていた政治家も、いったん権力の座に着くと、権力の保持だけが目的になります。昨今のドイツを見ていて、その感を深くします。

    これを阻止するのが国民の力ですが、多くの場合どこかから資金を得ているメディアに操作され、結局は権力者の思うつぼになっている。国民が賢くなることですね。衆愚政治を回避するにはそれしかありません。

    民主主義は欠陥だらけであっても、それに代わる制度・主義がないのが現状です。ただし、北アフリカやイラク・アフガニスタンに民主主義を移植しようとした欧米の狙いがすべて裏目に出たことからも分かるように、民主主義を確立させるにはいくつもの条件が満たされなければならない。中東ではそれに100年あまりの年月がかかるでしょう、仮にその日が来るとして。
    次項有
  • 2017/10/17 10:42
    zosanさん
    私は文系の学科にとんと興味が無く(・・・理系に優れていたかと言うとそれも大して深い知識を得たような気も有りませんが)、おそらく何らかの形で高校の世界史の授業にも出て来たであろうドイツ関連の大きな話、例えば2つの大戦のあとのドイツの苦境など、全く頭に入っていませんでした。
    こう言ったら笑われるかもしれませんが、チャーチル卿の言葉通りドイツがもし地図上から消えていたら<東の国>と言う、いかにもドイツの属国みたいな名前のオーストリアはどうなっていただろうかとか国民の大半がドイツ語を使っているスイスはどうなっていたのだろうかなどと、実にくだらないことしか頭に浮かんできません。
    文系、特に歴史に弱い私の頭に浮かぶのはこんな枝葉の先の先くらいのくだらないことばかりです。
    この辺の知識豊富なベッガさんに脱帽です。
    次項有
  • 2017/10/17 13:15
    > zosanさん
    > <東の国>と言う、いかにもドイツの属国みたいな名前のオーストリアは…

     そうなんだ。知りませんでした。調べたら、ドイツ語で「東の王国」を意味する、とありました。 「オーストラリア」は、「南方の大陸」を意味するラテン語だとか。子どものころ、よく混同したものでした。;^^
    次項有
  • 2017/10/17 18:57
    鉛筆ベッガさん
    > zosanさん

    添付の地図をご覧ください。

    これは5世紀後半から8世紀半ばにかけて今のフランス、ベネルクス、ドイツを支配したメロビング朝の版図です。のちにこの王朝が衰退したときその宮宰ピピンが実権を奪い、彼の子孫がカロリング朝を打ち立てて欧州を支配することになります。

    地図にはAustrasiaという地域があります。「東の国」という意味で、その名の通りメロビング王国の東部に位置しています。これは今日ドイツ有数のワイン生産地として知られるモーゼル川周辺の地域です。

    メロビング王国の属国として「アラマニア」と「ババリア」が示されています。

    アラマニアはアラマン族の地で、現在私が住む西南ドイツ、アルザス、スイス北部に相当し、これらの地域の住民の祖先がアルマン族なので、人々は今でも互いに親族だと思っています。

    フランス語でドイツのことをアルマーニュと呼ぶのはこのためです。

    英語でいうババリアはドイツ語ではバイエルン、ババリア/バイエルン族の領土で、1500年を経た今も同じ名称がつかわれているわけですね。

    注目すべきはザルツブルクがババリアの町となっていること。実はザルツブルクがオーストリア領となったのは最近のことなのです。ドイツ人の多くは今でも、オーストリアを東にある小さな分家だと思っています。

    オーストリアとの国境近くに住むドイツ人は、ザルツブルクの医療機関でも治療を受けられるようになっています。すぐそばの親戚ですから。
    次項有
  • 2017/10/17 22:12
    恥ずかしながら、カズオ.イシグロと言う名前も知りませんでした。
    いきなりノーベル文学賞作家と聞いて、ふーん!5歳までは日本人だったのね、くらい。でも今度図書館で見つけたらどんな作家なのか
    見て見たいと思います。社会派の作品が多いのですね。
    作家が自分の作品を映画化されるとき、この内容でよいでしょうか?
    という映画製作者からのお伺いはあるものでしょうか?
    だって、作家が自分の書いた通りのイメージと違う時は「これは俺の作品ではない!」とダメ出しする権利はあると思うのですが。
    カズオ.イシグロはすこし不満でも、これで自分の作品が世に出ることになれば良しとするというところかしら?
    次項有
  • 2017/10/18 08:38
    > ろれちゃんさん
    > 「これは俺の作品ではない!」とダメ出しする権利

     法律というか業界のルールがどうなっているのかは知りませんが、常識的には、原作者は、映画化権を認めた以上は、どんな映画になろうと、上映を差し止めることは出来ないのでは。
     小説と映画では、表現する手法が全く異なります。
     映画の製作者たち(とりわけ監督)にとっては、原作は自らのイメージを膨らませるきっかけというか手段であって、その作品が原作者の気に入るかどうかは二の次です。
     むしろ、判断は、観客にゆだねられているのだと思います。
     原作は良かったけど映画はつまらなかった。逆のケースもあると思います。原作者が表現しきれなかった創作意図を映画の方がより的確に表現し得た。そんなケースもあるのでは。
     それに当るのかどうかわかりませんが、この文章を書きながら、映画「シェーン」(ジョージ・スティーヴンス監督)が思い浮かびました。
     何回も見ています。大好きな映画です。いつかジャック・シェーファーの原作を読んでみたいとも思っています。でも、映画以上の感動が得られるとはとても思えません。というよりも、映画の印象が強すぎて、原作を素直に読めないような気がします。

     もちろん、原作者が映画化された作品を批評することは自由です。その批評が妥当かどうかも、やはり、読者や観客が判断すればいいのです。
     そもそも、映画化の構想が持ち込まれた時点で、その意図や内容、監督や俳優などが気に入らなければ、映画化を認めなければいいのです。

     ちなみに、私は、山田洋次監督の「遥かなる山の呼び声」も大好きで、何度も観ています。この映画、「シェーン」をモティーフにしていることで知られていますが、全く別の作品として楽しんでいます。
     ラストシーン、美幌駅に停車中の急行列車(「大雪」号)の車中に網走刑務所へ護送される田島(高倉健)を虻田(ハナ肇)が見つけます。そして民子(倍賞千恵子)が田島の座る席まで来るのですが、護送員(警察官)の目を気にして声をかけられないでいる。そこで虻田は向かい側のボックス席に民子と座り、彼女が酪農を辞めて武志(吉岡秀隆)と中標津の町で暮らしながら田島を待っているということを民子との会話にして田島に聞かせます。涙ぐむ田島。民子は黄色いハンカチを田島に渡し、田島は涙を拭いながら窓に顔を向けるのでした。
     この映画を見て、私は、クレージーキャッツのハナ肇が大好きになりました。
    次項有
  • 2017/10/18 09:49
    > 南総の寅次郎さん
    私は逆に映画と小説が配役も含めてイメージがピッタリ一致した
    作品があります。それは、エミリ.ブロンテの「嵐が丘」です。
    あれは映画との出会いが先でものすごく感動があり、後で小説を読みましたが、イメージのブレはありませんでした。

    「風と共に去りぬ」もそうでした。
    次項有
  • 2017/10/18 22:35
    > ろれちゃんさん

     「嵐が丘」は本を読み映画も観ました。「風と共に去りぬ」は映画だけ。いずれも素晴らしかった。
     原作と映画、そしてろれちゃんの感性がピッタリ一致した。素晴らしい経験でしたね。^^
    次項有
  • 2017/10/18 09:36
    鉛筆ベッガさん
    > ろれちゃんさん

    原作と映画の差で作者が怒った有名な例はミヒャエル・エンデのDie unedliche Geschichte(果てしない物語)ですね。

    私は80年代に映画を見て、ドイツに来て本が読めるようになったときに原作を読みました。映画よりも感動しましたが、映画のイメージに助けられた部分もありました。

    映画が先、原作が後だと、がっかりすることは少ないように思います。(「朗読者」は原作が先だったので、TVでこの映画が放映された時、ちらと見ただけで止めました。)

    エンデも最終的には映画は別物と諦めたようです。でもこあの時期の争いとストレスが原因でエンデは胃癌になり、早死にした、というのでなければいいのですが。
    次項有
  • 2017/10/20 10:02
     私のブログに「文学と映画」にかかわる素晴らしいコメントを寄せていただいてありがとうございました。本来なら、ベッガさんご自身のブログに書かれてしかるべき内容です。
     ベッガさんの今回のテーマを読まれた方は、ぜひ、こちらへも。いささか手前味噌ではありますが…:^^・

    ・「読んでもらうためではなく、見(観)てもらうために書いた」(グレアム・グリーン) 「映画音楽は足し算じゃない。掛け算だ」(キャロル・リード?)/映画は原作を超えられるか(「元の文章」とベッガさんのコメントから)
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