今年のノーベル文学賞は前評判の高かった村上春樹には行かなかった代わり、日本生まれの英国人作家カズオ・イシグロへの授与が決まったことで、日本でも盛り上がったようだ。 この人の文壇デビューは1980年代初めだが、1989年に出版された「日の名残り」が英国版芥川賞ともいえるブッカ―賞を受賞したことで、当時の日本の新聞でも大きく取り上げられた。 それですぐにそこの作品を読んでイシグロへの興味が増したので、続いて「浮世の画家」も読んだのだが、こちらはどうもしっくりせず、外国人の目に映る異国的な日本という印象が強過ぎ、「日の名残り」で感服させられた拡張高い文体や英国らしさが見当たらなかったため、その後この作家のことはほとんど忘れていた。 出版から3、4年経って「日の名残り」がアンソニー・ホプキンス主演で映画化されたことは知っていた。しかし監督の名を聞いて私はこの映画を見ないことに決めた。 ジェイムス・アイヴォリーは80年代から90年代にかけて日本でも大きな人気を誇った映画監督で、私の知るところでは特に女性のインテリ層にファンが多かった。 というのも彼は古典的な英国小説を好んで映画化していたからで、数十年前に大学の英文科で「名作」として教科書的にとりあげられ、したがって私の年輩の女性には極めて馴染みの深いE・M・フォースターの作品が多かったからである。 それでそういうインテリの友人に誘われて私はいくつかを観に映画館に足を運んだのだが、撮影技術も高度でどの場面も美しく、映画作品としては多分よくできているのだろうと感じる一方で、内容にはかなりがっかりした。 それでも「眺めのよい部屋」は私にとってさほど思い入れのない小説だったので、その原作と映画の乖離とはさほど気になるものではなかったが、続いて観た二作品においてはフォースターの真の意図が無視されているように思われた。 同性愛者を主人公にした「モーリス」では、私が最もシンボリックと捉え、本を読みながら「これを映像にしたらどんなに神秘的だろう」と想像していた場面が完全に無視されていて、アイヴォリー監督の感性に首をかしげたほどだ。 エマ・トンプソンがアカデミー主演女優賞を受賞した「ハワーズエンド」では、その失望はさらに深かった。(作品賞にノミネートされながら受賞に至らなかったのは、審査員がまともだったことを示している。) この「ハワーズエンド」のキーワードは、冒頭(と言っていいかどうか、とにかく本を開いて最初に目にするページ)にあるように“Only connect(ただ繋がりさえすれば)”であり、それを具体的に表現するための出来事が全体に散りばめられている。 けれども映画では、ハワーズエンドの屋敷の美しさや、労働階級出身の次女の恋人がさまよう朝の森の夢・幻のようなシーンなど、審美的にきめ細かく描写されている一方で、主題のモチーフに関連した場面はほとんどが切り捨てられていた。 それで、「ハワーズエンド」に続いて「日の名残り」が同じ監督により映画化されたと聞いたとき、私にとって最もインパクトが強かった箇所は、無視するには余りにも長いのでそれはない一方で、おそらく無残にも単純化されるなどして改竄が甚だしいことだろう、と恐れたのである。 そのプロローグにあるように、物語は1956年に執事のスティーヴンスが往時を回想するところから始まる。彼が敬慕の念をもって仕えたダーリントン卿はもはやこの世の人ではなく、ダーリントン・ホールの主は別の人物になっている。 それからDay One-Evening, Day Two-Morning, Day Two-Afternoonと続きDay Six -Eveningで終わる。 読後28年経っても私の記憶に残る逸話はこのDay Two –Morningの章で展開され、私の手持ちの版(この小説を私はドイツに持っていかなかったので、日本の自宅の本棚を探したらすぐ見つかった)では40ページにわたって綴られている。 それは1923年の出来事である。1923年といえば二つの世界大戦に挟まれた時代で、最初の大戦に敗北したドイツは英・仏を始めとする戦勝国から厖大な賠償金支払いを命じられ、貧困と屈辱に押しつぶされそうになっていた。 この状況を深く憂えたダーリントン卿は、ドイツの軍人ブレマンとの友情もあって、なんとかドイツに課されたヴェルサイユ条約の過酷な条件を緩和しようと奔走する。 ブレマン氏はダーリントン・ホールを幾度か訪れるが、そのつど衰弱ぶりが目立つようになり服装もみすぼらしくなっていく。うつろなその眼差しは病む精神をうかがわせ、ついに彼は自ら命をたつ。 ダーリントン卿は言う。「私が戦ったのは平和のためで、ゲルマン民族への復讐のためではなかった。」しかし英国、特にフランスは、ドイツの敗北をまさに復讐のための好機と捉えているかのようであった。 (こうしたドイツへの激しい憎悪は第二次大戦後にもむき出しにされ、かのチャーチル卿などは世界地図からドイツという国を抹消しようと言ったという。) 敗れた敵へのそのような仕打ちは不名誉な行為であり英国の伝統に反するとして、ダーリントン卿はドイツを救おうと活動を開始し、世界の著名人に働きかける。 そのしめくくりとして1923年のある時期、欧州各国および米国から政治家、外交官、学者などがダーリントン・ホールに招待され、そこで3日間にわたって非公式な会議が開催される。 だがダーリントン卿の懸命の努力もスティーヴンスの願いも実を結ばずに終わったことは、第二次世界大戦へと続くその後の欧州状勢から明らかである。 私は初めてこの箇所を読んだとき、カズオ・イシグロという作家が時代の波に乗って世を泳ぐのでなく自身の見識を守る人物であることを好もしく思った。 第二次世界大戦から72年を経た今の世でも、特にインテリ層では、ドイツを弾劾しこの国を厄の権化のように悪しざまに罵ることが時流となっている。ドイツをどれほど非難しても、それが不当と批判されることは、まずない。 確かに、ドイツがユダヤ人の殲滅を図って犯した数多くの蛮行は、世界の歴史においてもほとんど類のないものであった。 また、英・仏がドイツに向けた憎悪は一方的なものではなく、もしドイツが勝利を収めていたら、これらの旧敵国に対して同様の過酷さで臨んだであろう。だから私はその点に関してドイツの肩を持つつもりはない。 しかし一旦戦いが終わり、国民が身を削って償いをし、敗れた国の義務を数十年にわたって遂行してもなお世界がその敗者を責め続けることは、ダーリントン卿も言うように「正義」の名に値しない。 そういう見方をイシグロ氏が「日の名残り」の登場人物を通じて示したことに、私は驚いたのだった。 この作品が発表された28年前には、人々の戦争の記憶がまだ新しいこともあり、ナチという怪物を生んだドイツへの嫌悪は21世紀の今よりもはるかに熾烈だったはずだ。 イシグロ氏にドイツをめぐるこの事件を書かせたのは、同じく敗戦国である日本の、原爆の洗礼を受けた長崎という地で生を受けた背景の所以だろうか。 この10月6日、カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞というニュースを聞いて真っ先に私が思ったのは、ドイツはこれにどんな応を示すだろう、という点だった。 いくつかの新聞記事を読み、ドイツばかりでなくスイスやフランスの新聞にも目を通した。 スウェーデンでの決定の直後は、ほとんどの記事がイシグロ氏の履歴の紹介で、日本で生まれたこと、父親の仕事の関係で5歳で英国に渡りすぐに母国に戻るはずが、少年期・思春期・青年期を英国で過ごしついには帰化するに至ったことなど、内容はどの新聞でも当然ながら同じであった。 書風については、「日本人の精巧さと英国人の明快さとの組合わせ」とか、「ジェイン・オースティンとカフカを合わせて2で割ったらイシグロになる」などという評もあった。 はっとさせられたのは、Frankfurter Allgemeine Zeitung(FAZ)の記事である。 同紙は、「日の名残り」に用いられている語りの危うげな調子が欧州で固く信じられていた歴史観と対極にあることを指摘した上で、これが1989年というUmbruchjahr(大変革の年)に出現したことがその効果を高めていると述べている。 それで初めて私は、この年に欧州、特にドイツが大きな変換点に立っていたことに気づいた。同年の夏、東独を脱出しハンガリー経由で西ドイツに行こうとする人々がハンガリーに集まり、それがピクニックと呼ばれた。 社会主義との決別を願うハンガリー政府は、この集りを制止するどころか、9月には国境をすべて開いて人々の移動を助ける。このニュースを私は秋のロンドンで聞いたのだった。 FAZはまた、イシグロ氏の作品のドイツ語翻訳がいつも非常に迅速に出版されることについて、(英語に堪能な人の多い)ドイツで人々が原語版に手を伸ばす前にドイツ語版を提供するためだと言っているが、これはドイツにおけるカズオ・イシグロの人気を示している。 日本人の私が、まさか10年あまり後にドイツに住むことになろうとは思いもよらぬままに、ドイツという国を庇う人物を描いてくれたことを嬉しく思ったとしたら、当のドイツ人たちが覚えた感謝の念はどれほどであったろう。 |