かばんの古さに大先生のユーモアを感じますね。
ピアノのしっかりした鍵盤素晴らしいですね。
何も分からないですが伝統を感じます。
今年1月下旬ごろからろれちゃんと風邪が話題になって、お互いになかなか治らないわねえ、などと言いあっていたのだけれど。 その後ろれちゃんはダンスやオリンピックで気を紛らわせておられるらしく、あまり話題にのぼらなくなったが、2月の一週目が終わっても10日を過ぎても私の方は一向に良くなる兆しがなかった。 いつもなら、そのうち治るさと放っておくものを、今回はやけにしつこい上に、実は昨秋の帰国時に役所から頼まれていた数種類の証明書を提出する必要があって、そのためにミュンヘンまで出向かねばならなかった。 この証明書、もう笑ってしまうようなもので、昨年市当局が灌漑用水路の拡充を計画したところ、その一部が私の曽祖父の土地を通ることが分かったのだそうだ。 あまりにちっぽけな区画なので名義変更を祖父も父も忘れていたらしい。それで、私の代、つまり祖父の孫全員が相続人になるという。孫は16人である。 それを役所の人から聞かされたとき、私は「ちょっと待って下さい。曽祖父のひ孫全員が相続人じゃないのですか」と確認したのだが、担当者の説明では、曽祖父から祖父への相続は戦前に長男の相続が法律で認められていた時代のことなので、現在の相続人は祖父の孫だけに限られるという。 それで、今ではほぼ無価値なその土地を市に寄付してもらう必要があるのだが、16人全員から寄付の合意書をもらうのも手間だから、代表で私が相続人になったうえで寄付してほしいという。 私は外国居住なので印鑑証明もなく、各種証明に非常に手間がかかりますよ、と言ったのだが、他の誰かを相続人代表にしたところで、それに同意する旨の書類を私も提出せねばならず、手間はほとんど変わらないとのこと。 というわけで、一月早々に役所からメールで送られてきた5種類の書式を印字し、それを携えてミュンヘンの総領事館に行き、私がそこの職員の前で署名して、私の署名・拇印であることを証明してもらうことになった。 これがもう面倒なことといったら。午前中に記入署名して、証明書を発行してもらえるのが3時過ぎだという。一日仕事である。それは大体分かっていたので日曜日にすでにミュンヘン近くのホテルで一泊し、月曜日は4時頃に領事館を出てからまた同じホテルに一泊して帰ってきた。 その時期はドイツではカーニバルだったため夫の会社は休みで、仕事には支障をきたさない。一方、月曜日は日本では建国記念日なのにあり難いことに領事館はお休みではないという。 この時期を逃すと3月までミュンヘンには行けないと夫は言うし、役所は何とか2月末までに書類を揃えたいというので、2月12日に手続きをするしかなかった。 困ったのは私の体調である。咳が少しも収まらずそのため夜は眠れない。一旦は引いたように見えた微熱もまた出てきた。 しかしだからと言って延期もできず、夫に運転してもらって片道300キロの距離を出かけていった。 室内の空気がえらく乾燥しているのと、ミュンヘンは粉雪が舞う寒さでその中を無神経な夫に歩かされたのとで、月曜の夕方は咳で口もきけないありさまだった。 さすがに夫も肺炎ではないかと本気で心配して、帰宅するなり町の診療所に電話した。お休みなのは企業だけで診療所はお店同様に火曜日にはもう営業している。それが3、4箇所あるのに誰も電話に出ない。 後で聞くと、患者があまりに多くて忙しい時間はわざと電話に出ないことが多いのだそうだ。小さなクリニックでは受付係も看護婦も限られているのだから、まあ、仕方がない。 夫は困って、最後の手段としてアダム先生に電話した。 アダム先生というのは、私が15年前に日本で癌の手術を受けた後、5年間に渡ってその予後を診てくださっていた腫瘍学の専門医である。 特に転移などの懸念もなく、経過がいいので定期的な診断の必要はすぐになくなったが、先生の亡くなった父上が機械技師で夫がその人柄を慕っていたこともあり、私をダシにして世間話をしに病院に行ったりしていた。 そのうちアダム先生は定年で院長を辞められ、私も特に問題がなかったので、ここ3年ほどは疎遠になっていた。ただ、町のS診療所や隣の自治体の総合病院で週に何度か診療に当たっているとの噂は聞いていた。知識も腕も抜群の医師だから、引く手あまただったのだろう。 さて、夫が先生の自宅に電話してもだれも出なかったのだが、しばらくして先生自身が電話を返してきた。事情を説明すると今から診に行ってあげようと言われたそうで、夫は嬉しげにそのことを私に告げ、私は息が止まるかと思うほど驚いた。 それを聞く前に、今日はどこの診療所でも診てもらえそうもないと諦めてベッドでうとうとしていた時、私はアダム先生が往診に来て下さった夢をみた。 夢の中では病人のはずの私はすこぶる元気で、ミュンヘンで買ったオレンジケーキを勧めたりしている。そして、これから聴診器を当てましょう、というときになって目が覚め、こんなことが現実にあるはずはないとがっかりしたのだった。 それから15分ほどすると現実の先生が登場し、見ると古い鞄を抱えているのが、子どものころに往診に見えた田舎町のお医者様を思い出させた。なんとまあ懐かしい。60余年ぶり?ただしこう言っちゃ何だが、そのお医者様とは比較にならない大先生である。 先生は口の中を見てから唾や血液を採取し、息を吸って、ハイ、吐いて、と聴診器で調べたあと「喉と口内の炎症はあるが肺炎ではないと思う、ただし用心のために抗生物質を飲んでください」と言い、痰を取る薬の処方箋も書いて下さった。 診察していただいたことで半分は治った気になった私は、帰りかけた先生にミュンヘンの有名なお菓子屋さんで買ったバームクーヘンを差し出した。 夫がアッという顔をしたのは、医師に何かを贈る行為はドイツでは固く禁じられているためだ。 だけど菓子包の下に小判を隠しているわけじゃなし、何を細かいことをと私は平気で、「先生が賄賂に弱い方でないことはよく分かっています。わざわざ来てくださったお礼です」と言うと、苦笑しながら受け取って下さった。外国人はこういうときちょっと得だ。非常識でも大目に見てもらえる。 そして先生がエレベータ―に乗る前に私は言った。「賄賂ならいずれもっと大きなものを差し上げますから。」 男二人が訝しげな顔をしているので、私は付け加えた。「ピアノですよ!」 わが家の居間にはグランドピアノを一回り小さくしたサロンピアノとかいうものが置いてある。もともとは保養所を経営していた夫の祖父の所有で、それを義姉が場所に困ってサンルームのようなところに置いていた。 夏は暑く冬はマイナス10度にもなる場所だ。夫はそのとき工場の最上階の倉庫を改築して住み始めていたので、居間の広さは十分にあり、ピアノを置いても大丈夫、というよりピアノがなければガランとしてしまう空間である。 夫も私も音楽の素養はなく全く弾けないのでただの飾りなのだが、たまに訪問客が喜んで弾いてくれたりする。 アダム先生は音楽の才能が豊かで、コーラス・クラブに入っていて歌もすごく上手らしい。その先生が居間に足を踏み入れるやいなやピアノに歓声をあげ、たちまちタララと鍵盤をなぞったので、私が「バッハを」とリクエストするとすぐに短い曲を演奏してくださった。 そのピアノのメーカーがドイツの名高い老舗であることにもいたく感激の面持ちだった。 今回は私の診察が目的だったからそう次々とリクエストするわけにもいかず、私は「いずれ引っ越すときには、次の家にピアノを置くスペースはないでしょうから、これは先生に差し上げましょう」と提案した。 アダム先生へのお礼の大きな賄賂とは、そのピアノのことなのだ。 写真1.はアダム先生の鞄。すごく古そう。 写真2.ブリュートナーというのは1853年にライプチヒで創設されたピアノのメーカーです。そしてライプチヒはバッハの町。 |