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2018年03月19日(月) 

五層の功夫
 陳 小旺

 

 太極拳を開始してから達成するまでを五層の修業段階に分けます。各層は練拳者のの功夫の程度を技術水準を示します。いわば成功への道しるべです。 
 太極拳の練習は学問と同じで、小学校から大学まで徐々に知識を深めていきます。一足飛びに大学に入るわけにはいきません。基礎から日進月歩していきます。今,自分の水準および技撃面での能力がどの層に位置しているか、さらに、なにをマスターしたら良いかを確かめる手だてとするために、この五層の修行法を紹介します。
 


 

第一層の功夫
 
「練習面」
 まず、一路の連続動作を身につけることを主とし、練習時に内気の活動を感じ始めるところまで、とします。
 立身中正、虚領頂勁、松肩沈肘、含胸搨腰、開胯屈膝の要求に沿って練習し、心気が下降していけば,気沈丹田の目的に達します。
 もちろん、すぐ簡単にこれらの要求通りにいくわけではありません。頭と首を正し、身体が前後左右へ傾かないようにし、両足の虚実を認識する程度とします。動作のぎこちなさや不適格な箇所が存在しますが、一層功夫としては正常な現象とみなします。
 身を入れて毎日10分繰り返せば、普通半年で一路は熟練し、鍛錬内容が高まるにつれ、体内の気の流れを感じます。これが外形による内気をともなう過程で、第一層から第二層への境界線に位置します。
 
「技撃面」
 第一層では技撃の方法について学ぶわけですから、各式の技撃作用をことさら追求する必要はありません。
 太極拳を知らずしてこの面を行うとしても、全身が支離滅裂となり功夫の前途に悪影響を及ぼします。風格も未だほど遠いのです。
 第一層が終了しても技撃としての作用は大変限られたもので、強ばりの勁、断絶の勁、手応えのない勁、逆らいの勁がまだ残っており、動きには欠点が少なからずあります。内気の感覚がわずかにあるといっても一気貫通したものではなく、発勁をしても腰が軸とならず,節々を通らずに一挙に飛び越してしまうこまぎれの勁で、ちょうど、根のない木、水源のない水に例えられます。
 このような問題をかかえていますから、技撃に挑戦しても往々にして重心を掌握しきれずに好機を逃したり失態を演じます。
 もちろん、なにも知らない人に比べれば少しは強く,一定の敏捷性も備わり、相手の力を利用してたくみにかわす“引進落空”で偶然に勝ったとしても、その瞬間に自分もバランスを欠きやすいのです。“一陰九陽のしくじり”と称します。
 陰陽は対立の統一で、両者は相互に転化しあいます。太極拳の練習は虚実計算を十分に行うことにより、陰陽相等しいものにしていきます。すなわち五陰五陽が最高級の標準です。第一層では”一陰九陽”?剛があまりに多すぎるのです。
 


 

第二層の功夫
 
「練習面」

 ここでは、練習中に生じる強ばりの勁や無駄な力を排除し,周身相随で節々を貫き、内気が動作の要求にそって規則的に体内を流れ、一気貫通させていくことを目的とします。
 第一層では初歩的に熟練し,内気活動に対しすでに明らかな感覚がありましたが、掌握するまでには至りません。ある箇所で力みが入るため意気が乱れたからです。
 動作が不協和を起こし(その欠陥を“矛盾”といいますが)、この矛盾は細心の注意をして研究してゆかねば解決できません。長い鍛錬経験者でも往々にしてこの矛盾を見逃すことがあります。含胸の行き過ぎ、腰の入れ過ぎなど、適切に怠りなくチェックをします。
 矛盾の対立面の統一により、“放松”の程度が掌握でき、周身が相合されてきます。“周身の相合”とは、内合、外合に分けます。外合とは、手と足、肘と膝、肩と胯を揃えることで、左手と右足、左肘と右膝という具合に、左右が上下で相合します。
 内合とは、筋と骨、気と力、肝と筋、脾と肉、肺と身、腎と骨、心と意を合わせます。
 第二層の功夫では,身体各部への要求は厳格で、内気の貫通をことさら求めます。ある一点がわずかに動けば、内気はすみやかに沈めます。この的確さは微妙で,一ミリの差が千里のミスにつながります。もし納得できない感覚が生じれば,どこかに強ばりの勁が使われ矛盾が発生しているのです。身体の調整が適切であれば気が順調に流れ、自然に沈みます。
 
 陳式太極拳の要求は一挙一動すべて纏絲勁と切り離せません。
“纏絲勁は腎より発し、いずこにも有し、無のときはこの類にあらず”と拳論にあります。運動中は纏絲法(即、纏絲螺旋の運動法)と纏絲勁(纏絲法で練られた勁)を厳格に掌握するーー陳式太極拳の精華がこれです。
 纏絲法の要求は、松肩沈肘、含胸?腰、開胯屈膝とし、腰を軸とに一動全動させ,掌心が内外に翻転し、手を内へかえすには手で肘を促し,肘で肩を、そして肩で腰という順に動かします(腰が最後にみちびかれて、実際には軸となります)。
 手が外に向くには、腰で肩をうながし、肩で肘、肘で手という順にみちびきます。上肢は手首をまわして腕を動かし、下肢は踝をまわして腿を動かし,身躯は腰をまわし背を動かすという表現によって三者が結合し、足を基礎に腰で主宰して手と指により空間に立体的螺旋の旋転曲線を形作ります。練拳時、ある動作が決まらなかったり順調にいかない時には、螺旋の要領にそって足腰を調整して姿勢を矯正します。

 人体の内気は経絡を運行します。
人体の経絡は田畑に例えると通水溝のようなもので、詰まらないように爽やかに気を通します。身肢に矛盾があれば内気は妨げられて中断し、手足の先端に流れません。
 第一層の鍛錬中は、習い始めて熟練するうちに気が体内を流れる感覚に興味を持ち、飽くことのない面白さを持ちます。
 第二層に入ると新鮮味を欠くため、何度かマンネリを迎えます。上達したと思うときもあれば、どんなに練習しても代りばえせず落ち込むこともあります。そしてまた、あたりに風をはらう勢いの発勁ができたかと思えば、推手では何も使いこなせない、という繰り返しに悩みます。老師が秘訣を伝えてくれないと疑ったり、自分には素質がなく,忍耐力に欠けるのではないかと、それぞれ考えをめぐらします。気の流れに対するある一定の感覚はあっても、貫通させることは容易なことではありません。拳論では「人々はみなそれぞれ一太極をもっているが、功夫があるかないかにより異なる」と説いています。一般には、4年の練拳で第二層の功夫は完成でき、一気貫通するとにわかに悟ることができます。
 この時、自然に信念が深まり、ますます興味が高まり、功夫は日々上達し、もうやめられなくなります。“練拳者は千人万人、練成者は1人2人”という言い方はやや大袈裟ですが、実際には中途半端で止める人がほとんどです。信念を失い中断するかしないかはこの第二層の期間の試練にかかっています。この難関を突破する手だては何もありません。ただ屈することのない精神で、規則通り正しく套路を反復し,全身がひとつになって、一動全動し完全な体系をつくります。運動中に浮き上がったり,逆らったりせず、変化は思いのまま、円転は限りなくなってくるでしょう。“道理が不明なら師に習い、迷ったならば良友を求める”とよくいいます。さらに怠らず,努力し続ければ成功をおさめるでしょう。


「技撃面」
 第二層の功夫の初期は,第一層の技撃と表面はほとんど変わらず,実用価値もさほどありません。第二層の最終段階に一定の技撃作用を持つにいたります。
 推手と練拳は切り離せず,練拳に欠点があれば,推手にも弱点が出て隙を作ります。それで太極拳は妄動を禁じるのです。
 推手とは” 棚、将、擠、按を正しく用い、上下相随により人に攻め込ませず、相手の巨力を借りて四肢の巧みな牽動でえ千斤の力を発する“ことです。
 前層よりも内勁はやや充実し、重心の調整力もつき、足も安定しますが、対攻性水推手になると、身法を調整する余裕が与えられず、相手の力を無理に化わそうとしては纏絲運動がなおざりになります。相手の進攻が遅ければ、身法を調整することができ、化わすことができる段階です。
 このように、自発的に技を用いようとするときに無駄な力を出しやすいのです。強引に勝とうとする精神面ではまだ不充分です。“自己を棄て、人に連なり、臨機応変”の境地にはまだ遠く、二陰八陽というところです。

 


 

第三層の功夫
 
「練習面」

 “上手な練習法は、園を小さく練ってゆく”?練習法としては、大園から中園へ、中園から小園へ、小園から無園へという順序があります。
 ここでいう“園”とは手足の動きの大小ではありません。第二層と三層の接点段階では、内気の貫通が大園なのです。内気が希薄のため動作の幅を大きくする必要があります。

 第三層の功夫は、大園から中園への段階です。
この初期では、打拳中、わずかに気を抜いたり、疲れを感じて内気の運行にさしさわりがおこる時期で、一挙手一投足いずれに意も気も到達し、内気をもって外形を表現するよう心がけます。心で力を流し、気で身を動かすのです。
内気は丹田より発し、骨格の節々に流れ、皮膚を通して両手足の先端に注がれ、再び丹田に戻ります。これが纒繞往来すれば運動は自在となります。動作に技撃法を求めると動作は明確になってきます。
 推手は拳勢を検査する基準でもあり、多めに練習するとよいでしょう。練拳での不明点は対抗性の推手で解明していきます。自らの拳架の正確度を推手により実証していけば、相手を知る功夫の練習となり、内勁の質も向上します。
 
 拳論に“意気が君主で骨肉は下臣”とありますが、意を重視し、力を用いないようにするためには、まず姿勢の正確さが必要です。“外形は娘のようにして、内面に金剛を宿す”という外柔内剛でエネルギッシュな勁を求めます。内気が速やかに流れれば意が主となり、一挙一動は大脳支配のもとで意気運動がなされます。気が体内をいかに流れているかのみを考えることは絶対にありません。もしあれば動作を軽視した自己陶酔になり、間の抜けた太極拳となり気勢の散漫さをもたらします。“気ではなく、精神にあり、気にあれば滞る”と言われている通りです。
 すでに体質も強く鍛え上げられた段階ですから、毎日15回は繰り返します。4回ほど二路を入れてもかまいません。さらにその他、武器を用いた練習や、発勁動作を増やしていきます。こうして第三層で2年ほど経過すると、第四層の功夫へと突入していきます。一路のみの練習でも可能ですが、何ごとも経験が必要です。


「技撃面」
 第三層は、練習中でも身体内外が体系的となりましたがまだ内気の貫通が希薄で、筋肉活動と内臓器官に築かれる協調関係が固まっていません。したがって、対抗性推手と技撃では一般的にはかなりうまくいきますが、手強い相手にぶつかり相手の進攻が快速で力があれば、やはり掤勁が不足で自在に化わせません。相手をとばして自分もまたころぶことが往々にしてあります。つまり、内気の充実が不足していて周身で構成する体系が安定せず、こわばりと無理やりに相手を引いたり突いたりします。“三陰七陽まだ硬い”というところです。
 


 

 

第四層の功夫
 
「練習面」

 第四層は中園から小園への段階です。高度な境地に入りました。
 具体的には太極拳のすべてを掌握しています。また各式の動きを組み合わせて実践に応用することもできます。臨機応変に技を用いる研究も可能です。
 練拳どきは周囲を手強い相手に囲まれていることを想定し、意識して気力を充実させておきます。まるで相手と戦っているような様で練拳し、正に戦うときは、度胸をもち、動作には最新の注意を払えば、相手をまるで意識していないような戦法になります。練習種目は第三層と同様で、第四層の期間は3年から5年かかります。

「技撃面」
 前段階とは大いに異なります。
 第三層では相手の勁を化わし、身法を調整して反撃の勁に替えることができるようになりました。第四層では、化わしを連ねながら発勁をともなうという段階に進みます。
 つまり、功夫は充実し、周身を構成する体系が固まったからです。推手時は、相手の進攻に対し自分の威力が弱いと察したならば触れたまま身法を変えてゆく神業の智恵を繰り出すことが特長となります。逆らうことがないので変化は人に知られず、実を避け、虚をつくのです。動作は小さくまとまり、その威力は的確なものがあります。化勁も発勁も思いのまま、ほとんど動かずに人を飛ばすので、何が起こったか分からない素早さとなります。
 私の父が第四層に達したときでした。
 叔父が旅から帰り、父と私が彼の家に招待されました。叔父は父と同年で父よりも立派な体格をしています。家に入るや叔父は突然両手で後方から父の右腕をとり、逆関節で引き込んでいいました。
「どうだ、振りほどけるか?」
突然の出来事で、しかも強烈です。普通ではとてもだめです。
 父はちょっと払ったようでしたが、叔父は1メートルほどの高さに真っ逆さまに宙返っていました。
 父はすぐ一歩右足を出すと大腿で彼の頭を受け止め、両手で抱えると地面に叩き付けました。叔父は真っ青。見ていた人もただ驚きです。
 実は何でもないことで、襲われた時、父は重心を下げ、身体をやや左へ回し左足に体重をかけると、つかまれている腕をそのまま後方下へ逆纒でひねっただけでした。
 叔父は自分の力の分だけ前のめりになり、その刹那、父に敗れたのでした。“四陰五陽は名手の類い、相手に触れれば早技の妙”といいます。
 


 

 

第五層の功夫
 
「練習面」

 小圏から無圏へ、有形無跡の段階です。初期としても基本的にはすでに完成したもので、剛柔が相済され、弾力性豊かな拳さばきは高い境地を示します。しかし、さらに引き続き研究すればするほど精緻になり、一日の功夫が一日の成果につながります。
 剛柔相済といってもいろいろあります。柔よく剛に克つと言っても、その内容によります。柔の化わしが立派になり敏捷になったからといっても、人と手を組んだにすぎません。拳銃から発射される弾のような剛勁を柔で化わすにはさらに水準を高めねばなりません。柔は剛に克ち、剛は柔に、剛は剛に、柔は柔に克たねばなりません。
“相手の下す手が見えず、見えても制せられている”と拳論にあります。また、“もし功夫が精錬されていれば、無限の大圏となり、生じては無となり、強敵にまみえることもなく、もし対決しても、俄に雷が閃くと同様、根こそぎ吹き飛ばしてしまうようなもの”、“気が動きだせば、志は停まらず、引用の正気は混沌とし、天と地をつくり、有から無となり、その玄妙さ天の技のごとく”といろいろ言われています。
 太極拳が五層の功夫に達したからといってうぬぼれは禁物です。さらに刻苦鍛錬の連続です。この段階が完成すれば、内勁はまさに充実し、そのなめらかさは空気のようになります。


「技撃面」
 ここは頂上です。全身すべて太極となり、一動一静が融合します。
“まごうことのない内容をもち、外形は千変万化きわまりなく、修養はみち、真理を手にし、反応はすべて動きに呼応したもの”になります。
 “内に深遠さを秘め、外は堂々と威風をもち気風混沌とし、ひたすら軽妙で、万象を体内に深蔵し、寂然たるさま愚人の如く飄々とし、陰陽がその身に結合されているなど誰にも解らず、勇気ある者が手を出しても、化わされ投げられる、まさに神妙の技である。引くに引けず、出るに出られず、円い石の上に立たされたようにおどおどし、艱難のさまは後悔先に立たずとなる。もし何か手があるとすれば、一開一合で千人の軍を一掃する心づもりで修業に励むしかない”のです。


 陳 耕転は護衛(ボディガード)を職としていました。
 山東の掖県一帯を通ったとき、夕食後、会計の王さんと村へ芝居を見に行きました。
 当地には武芸にたけ、弟子を大勢もつ拳技の名手がいて、耕転の腕を試したいと思っていました。その者が数十名の弟子を芝居に行くふりをさせて先回りさせ、耕転たちが山道に入ると襲撃してきました。周囲を取り囲み、徐々に詰め寄り、一斉に飛びかかるつもりでした。
 彼らが詰め寄っても耕転は不動の姿勢のまま、近付く者をつぎつぎに投げとばしました。「王さん、今日は芝居は見られません。帰りましょう」と話していると、一人が先回りして待ち伏せています。
 帰り道の途中に細い橋があって、そこで耕転を水中へ落とそうと何人かで待っているのです。耕転は長いキセルを取り出すと“火を貸して下さい”と言いながら人々の真ん中へ突っ込み、両側を猛然と突き払いながら進みました。みんなは水餃子のようにポチャポチャと水の中に落ちていきました。
 翌日、耕転が広間の椅子に座っていると、大男が突如飛び込んでくると“陳老師!”と叫ぶや地に膝まづき、顔を上げるとフウッとかけ声もろとも耕転を両腕でつきとばす勢いで飛びかかってきました。そのとき、耕転の胸に手がかかったかとみるや、耕転が身をひらりとかわし、左右の手を上下に分けて絡めると相手の手を払いのけ、右肩で「みぞおち」を打ちました。
 大男は玄関の外まで飛びましたが、再び入口の敷居に足をかけ反撃の力で打ちかかってきました。耕転は、待ってました、とばかり身体をよけると相手の右腕をとり引き込み、肩を右脇にあてると、大男はなんなく外に放り出され、のびてしまいました。
 大男はすっかり耕転に心服し、弟子たちを集めると耕転の拳技をほめたたえ、さらに石碑にその出来事を刻んだということです。


 父の照旭が五層に達したのが1954年で、温県菜円溝大隊の陳 百方がレンガを父に放りました。父に当たり、跳ね返りましたが、父は無傷でした。五体が手のようになり弾力性をもってボールをはね返すと同じようになるのです。
 五陰五陽に達すると、蓄発が相変し、すべて絶妙な正確さを持つに至ります。全身と中枢神経の協調関係の成立が頂点に達し「妙手は一運一太極、太極一運思いのままに、その不思議さは謎である」。
 生ある限り知識を求めるように、一人の人の太極拳もまた、その生涯その妙味は尽きません。



閲覧数1,182 カテゴリ太極拳 コメント4 投稿日時2018/03/19 10:42
公開範囲外部公開
コメント(4)
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  • 2022/11/23 17:07
    iscribbleさん
    Learning martial arts is very necessary for health training, especially for students from primary school.
    次項有
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