以前にも何度か触れたが、わが家はスイスの新聞を購読している。ニ年前2016年の新春に、ドイツの日刊紙フランクフルター・アルゲマイネFAZからノイエ・チュルヒャー(新チューリッヒ)NZZに換えた。 理由はFAZの方があまりにメルケル政権べったりの報道に偏ってきたためである。それ以前からもNZZは折りがあれば買って読むようにしていた。 新チューリッヒ新聞とあるが、実際はドイツ語圏で最古の、そして最も格式の高い新聞である。 スイス以外の国に発行されるのは国際版なので、フランスやアメリカに関する記事もドイツの新聞より豊富で、ドイツに関する記事も客観的なのが非ドイツ人の私にはありがたい。 さて4月の最初の週、夫とスイスの村に出かける前日のこと、NZZを読んでいた夫が「ハイディのお父さんが亡くなったよ」と言う。 ハイディ,日本式に発音するとハイジという名はドイツ語圏ではよくあって、知り合いや親戚にも何人かいる。それで「え?どのハイディ?」と訊くと「ハイディ、ハイディ、山々が君の世界・・・」とアニメの主題歌を口ずさんだ(この主題歌はドイツ語圏では日本のとは全く違う)。 高畑勲氏の訃報はネットで既に見ていたので、ああ、とすぐ分かったが、それを一流紙で報道するのはさすがスイス、と思った。 このアニメ、私は日本では見たことがなかった。アニメ一般に無関心なことに加え、とにかく70年代から2000年までは仕事で忙しく、おまけに私には子供もないので「アルプスの少女」のアニメがあることも知らなかったくらいだ。 それをドイツに来てすぐ見る羽目になったのは、うちにマイスター修業で居候していたR君が、毎夕5時になると居間にきてテレビをつけるからだった。 へえ、こんなのやっているんだ、と言うと「知ってます?この話」と尋ねられた。 「もちろんよ、初めて読んだのは小学校の1年のときだったわ、絵本で」と言うと、「ええー、そんな昔からあったんだ」と驚くので吹きだしてしまった。 そんな昔も何も、原作者はスイス人のヨハナ・シュピリで19世紀の作品だというと、さらにびっくりしていた。 このTV番組については、R君はマイスター学校の同級生から耳にしたらしい。そしてそれが語学の習得にも役立つことから、ほぼ毎日欠かさずに見ていた。 大きな犬が出てくるので、「こんなの原作にはいなかったと思うけど」などという余計なコメントが迷惑らしかった。 そして、無事マイスター過程を修了したので同級生を招いてパーティをした時、「お世話になりました」と彼からプレゼントされたのが「Heidis Lehr- und Wanderjahre(ハイディの修業時代と遍歴時代)」で、これが「アルプスの少女ハイジ」の原題なのである。 しかもCD付きだった。彼のドイツ語レベルは若さに加えて渡独前の数年間勉強していたこともあって、私のチーチーパッパとは比較にならなかった。 私の勉強にハッパをかけようという意図もあったのだろう。その心遣いを無駄にしないよう、辞書と首っ引きで読み始めた。 そしてその後スイスには何度も出かけ、ハイジランドと呼ばれる地域のそばも通ったが、私はなぜか「ハイジの村」に行きたいとは思わなかった。そこを含めて、グラウビュンデン州と呼ばれる山深い地方を私はとても好きなのだけれど。 一方、夫の大好きなアッペンツェルの村に日本人を連れて行くと、みんなが「うわあ、ハイジの国ですね」というので、いえ、ハイジの国はここから車で1時間半くらい南の方です、と説明するのだが、誰もが「これこそハイジ村ですようー」と言うので、ならばなおさら、改めて行くまでもないか、と思っていた。 ところで「アルプスの少女ハイジ」の舞台になったマイエンフェルトでは非常に良いワインが取れて、スイスに行くと夫は必ず「マイエンフェルトのピノ・グリを」と注文する。 スイス産のワインは量が限られるのでほとんど国内で消費され、仮に輸出しても値段がドイツワインと比べてさえ5割高なので、日本などではお話にならない。 しかし値段とは別に、白雪をいだく峰々を眺めつつ飲むマイエンフェルトのワインは格別らしい。 この地名を聞くたびに、私はプレゼントされたCDの中で、フランクフルトから故郷に列車で戻ってきたハイディが、車掌の「マイエンフェ~ルト、マイエンフェ~ルト」というアナウンスを聞いてはっと目を覚ます場面を思い出す。 さて、今回またアッペンツェルに行って、夫が散歩に出かけたあとキオスクで買ってきたスイスの週刊誌を読んでいると、Nachruf(お悔やみ)のページにまた高畑勲氏の記事があった。 彼こそは、スイス、あるいは彼バージョンのスイスを世界に知らしめて人気を高めた最大の功労者とあった。 そして、私は知らなかったが、彼が最初にアニメ化を考えていたのはアストリッド・リンドグレンの「長靴下のピッピ」だったそうで、そのために原作者の許可を得ようとスウェーデンにまで出かけたが、肘鉄を食わされたという。 ちょうどその時期、私はノーベル文学賞選定機関であるスウェーデン・アカデミーのスキャンダルを新聞やTVで見て、この国の偽善や虚構の世界に憤慨していたので、ふん!と思ってしまった。 スウェーデンの王室まで介入させているスキャンダルについて述べると長くなるのでここでは省略するが、私は「世界でトップの福祉国家」とか「最も平等な国」とか「汚職が最も少ない透明性を誇る国」とかいう看板は眉唾物だといつも思っている。 今回のスキャンダルはスウェーデン・アカデミー(アカデミー・フランセ―ズを真似たものだそうで、ここでも成り上がり根性がうかがえる)の関係者のセクハラ報道が発端で、会員、会員の妻、会員の娘を相手に性的暴力を繰り返していた男が、同時にノーベル賞受賞者の名をリークしていたという疑いも出ている。 この事件に国王は激怒している、というが、ここで私が意地悪く笑ってしまったのは、このグスタフなんちゃらという王様、数年前に売春婦をガールフレンドとしていたことがばれて、スウェーデン内外、特にドイツでちょっとした騒ぎになったからだ。 なぜ特にドイツでかと言うと、シルヴィア王妃がドイツ人なので(1972年のミュンヘン・オリンピックでコンパニオンをしていた時に見染められたんだってさ)ドイツの女性週刊誌はスウェーデン王室から目を離さないためである。 それでこの王様、どんな顔してスウェーデン・アカデミーを叱責したのだろう。 そのことと「長靴下のピッピ」とは関係ないでしょう、と言われるだろうが、私にはこの偽善国のこの作家もまた偽善者のように思われる。 1970年代といえば、欧米から見れば日本はようやく「先進国」に仲間入りしたばかり、いや、仲間に入れてやったばかり。 そんな新参国のよく分からないアニメ作家とやらにわが傑作を使わせてたまるもんか、と思ったのではないか。と、この辺りは私の推測だが、そもそもこちらに来て以来、「アジア人に欧州の学術文化の精髄が理解できるはずはない」という偏見に何度も出くわしているため、こっちもかなり人が悪くなっているのだ。 記事には「ヨハナ・シュピリが同じ要請を高畑氏から受けていたら、どんな反応を示したかと思うと興味深い」とあった。アニメ制作の70年余り前にこの作家が他界していたことが、スイスを「ハイジの故郷」として世界中に知られる国に変えたことは皮肉である。 最後に、高畑氏に最も感謝をしなければならないのは、毎年日本人旅行者が引きも切らず次から次へと訪れるマイエンフェルトの住民であろう、とあった。 (なお、ハイジにもお父さんはもちろんいましたが、生まれて間もないころに大工仕事をしていて事故でなくなります。確か、トビアスという名前でした。) 写真1.スイスの野の花。ハイジのイメージにぴったりでしょう 写真2.残雪のアルプスの前景はレンギョウの花 写真3.山羊と犬の両方から「撫でて」とせがまれて忙しいわが夫 |