そういう事情があるのですか、でも週日の方がホテルも安いでしょうに、お年寄りでも週末って、なぜでしょうね。
スモークツリー、確かに英語でもそういうんですね。ところがドイツ語では「カツラの木」っていうんです。どうしてこれがカツラ(鬘)なの。
200~300年くらい前の、バッハとかモーツアルトが被っていたようなのかしら。でもこの植物と写真のカツラと、どこが似ています?
特に旅が好きというわけでもなく、まして冒険心などというものはかけらもない私が、30歳まであと半年というときに思いたって中東に行くことにした。 思いたって、と言っても、当時の社会や自身の経済状況からして今日思いつき明日実行というわけにはいかなかったから(何しろ成田空港もなかった時代だし)、その1年ほど前から私にしては真面目に少し貯金し、受け入れてくれる先を確保した上での出立である。 当時はまだ勤め人だったので3カ月の休職を申請すると、民間の私企業ではないため、また行き先からして仕事とまったく無関係ではないということで、比較的簡単に休みをもらえた。(もちろん無給。) その旅の1年半ほど前に日本で知り合ったA氏を頼っての旅で、世話になったのは彼のほかレバノン/シリアにいるその家族と親戚だった。 A氏はレバノン人だが、当時は1975年に始まった内戦が一向に収まる気配がなく、自国では仕事ができないため母親の国であるシリアを業務の拠点にしていた。 彼の仕事はそのほとんどが日本製である医療機器の販売とメンテナンスで、そのためシリア中の病院を訪ねてまわる。それに同伴すれば同国内のいろんな町が見られるというわけである。 また両親や弟妹はレバノンに残っていたから、週末にはダマスカス―ベイルート間を往復することもあった。シリアの砂漠、というよりは土漠を西に走り、国連軍が監視しているゴラン高原やブドウ栽培で知られるベカーの谷を越えて地中海沿岸のベイルートへと降りていく。 「内戦の前にはここは中東のパリと言われたものだが」とレバノンの人達が言う通り、爆撃で破壊された建物が並ぶ海岸通りは索漠としてはいても往時の名残がそこここにあり、一部の通りには喫茶店やレストランが軒を連ねていた。 さてここで話はいきなり逸れて、2か月ほど前に私はスキャナーなるものを買った(正確には、買ってもらった)。 特に欲しかったわけではないが、2009年にデジカメを使い始めるまでは全部フィルムで写真を撮っており、それまでの現像写真のアルバムが20冊くらいになっている。 さらに、夫の子供時代の写真や代々の家族のポートレートなどが引き出しにぎっしりである。 自分の写真もだが、これらセピア色の写真をなんとかパソコンに入れ込む方法はないものかと以前から考えていた。 だいぶ前に日本の同級生から近況を示す写真をメールで送れと言われたとき、現像した写真しかなくて困っていたら夫の事務所の人が「スキャナー」なるものでなぞってデジタル化してくれたことがある。 それがいかにも簡単そうだったので、そのうちその器具を買おうと思っていて、今年の3月にパスポート写真を撮ってもらいに町の写真屋にいったときついでに質問すると、すぐ取り寄せられますよ、という。 そのことをこっちはまた忘れていたのに、1週間ほどたって夫を介して「大型と小型とどちらにしますか」との問い合わせがあり、大は小を兼ねると大型を選んだ私が馬鹿だった。 どう馬鹿かはともかく、スキャナーが届けられて店の兄さんがインストールしてくれ、「では試してみましょう、写真はありませんか」というので、自室の本棚の隅にあった古いアルバムを出してそこの写真を4,5枚スキャンしてもらった。 それが41年前の中東旅行のときに撮ったもので、以前に夫が「えらく小さくてよく見えない」とこぼしたことがあるが、それだけでなく現像したのがダマスカスの超低レベル写真屋なので質も恐ろしく悪い。 スキャンした写真を見て呆れた兄さんは、これを断然きれいにするソフトもありますよ、というのだが、スキャナーの扱いだけでも手に負えなさそうなのにそんなソフトなんぞと、「そのうちにね」ということになった。 さてパソコンに取り込んだ写真、質が悪いだけに顔の造作も極めて不明瞭で、これならブログで「公開」しても、昔の私を知っている人でさえすぐに私とは分からないと気づいた。 ならばとブログにシリア/レバノン旅行記を書いてそこに写真を添付することにしたのだが、それだけではつまらないので、当時訪ねた主な場所の景観を示す写真をネットで探した。 最新の写真となるとほぼ全部が戦闘で廃墟と化した所ばかりで見分けがつかず、ネットで拾ったのはおそらく今世紀の最初の10年間に撮ったものと思われる。 それで今回お見せしているはシリア北方の、ダマスカスに次ぐ都市アレッポである。その前に、地理的な関係を示すためにシリアの地図をご覧ください。 ダマスカスから北へ、今回の内紛で真っ先にやられたホムスやハマを通ってトルコの方角に車を走らせる。ハマにはローマ時代からという大きな水車などの遺跡もあり今なら大もての観光スポットだろうに、もう跡形もなくなっているだろう。 アラビア語でハレブと呼ばれるアレッポはヨーロッパでは古くから石鹸で有名で、私もテレビ番組でオリーブなど天然材料を使った石鹸の製造工程を見たことがある。こちらの「オーガニック」製品専門店で結構なお値段で買ったのがわが家にもあるけれど、一般の石鹸とどう違うのかよく分からない。 多分「シリアのアレッポで」という異国情緒が付加価値なんだろう。しかしここ7、8年は住民も消えて石鹸どころでなく、その分稀少価値もあるのかもしれない。 さて私自身の写真だが、立っているのはアレッポの真ん中にある城塞の入口階段である。ネットで探した写真は、それから30年は経っていると思われる。 この城塞、中はイッパシの町になっており、包囲されても数日~数週間は耐えられるようになっていた。といってもスペースが限られるので何もかも一回りから二回り小さく、シリア人も昔は今よりよほど小柄だったとみえる。 写真の顔は実物同様にぼやけているが、一目でブスと分からぬようちょっと工作した。 何たってズボンが変ですよねえ。これ当時はやりのベルボトムとかいうやつです。 |