学生時代『明月記』を読みました。天変地異によって元号をかえたことを知りました。当時は陰陽道がどんなものなのか資料がなくて苦労しました。
年輪は木の生えていた方角、年輪の幅で気温の変化などがわかるそうです。
屋久杉は縄文杉といわれるほど長く生きていますのでまさに生き証人です。
貝は殻が、さんごも骨格が残るので細かい年まではわかりませんが、
おもに遺跡の環境がわかります。近年「環境考古学」という分野もできたそうです。
昨日までオーストリアとスイスに旅行していたあいだ、知人や旅先で知り合った人達と話題になったのが、目下の欧州の猛暑と1540年の夏との比較だった。 彼らの話によると、1540年、今から約480年前の欧州の熱波は現在のそれよりもはるかにすさまじいものだったという。 当時は大気中のCO2もNOxも微々たるもので、欧州全体の人口も、諸説あるものの8千万前後だったとされる。(現在は7億3千万~7億5千万) このように全く異なる条件にもかかわらず、熱波が欧州を襲い、その損害と人々の苦しみは筆舌に尽くしがたいものだったというのである。 帰宅して、その真偽のほどを確認しようとインターネットを調べたところ、Sommer in 15・・・と入力したとたん40と自動的に出て、これは検索数が異常に多いことの証拠だと吃驚した。 ところがもっと驚いたことに、それに関する記事・情報のほとんどすべてが2014年のものなのだ。ベルリン新聞とかKlima Archive(気候アーカイブ)、ヴェルト紙、シュピーゲルなど資料はたくさんあるが、それらがいずれも2014年に公表されていたとなると、既に4年前までにこの16世紀における「災厄」がかなり詳しく研究されていたわけである。 振り返ってみて2014年がどんな年だったかあまり記憶にないのだが、ドイツは例の難民騒動の1年前、ユーロ危機も表面上は落ちついていたから、社会は全般に比較的穏やかで夏もさほど暑くはなかった。 そのためか、当時インターネットで1540年の夏に言及した記事を目にした記憶はない。この私が覚えてないのは別に不思議はないが、旅先でその話をしていた夫も4年前には何ら注目せず、今頃どこかでそんな古い記事を拾ってきたとみえる。 今になって「新聞」ではなく「旧聞」の記事がにわかに脚光を浴びているのは、今年7月以来欧州全体が前代未聞の熱波に直撃されているためである。 メールで配信されてくる仏紙の見出しにも、Meteo(気象)に関するものが多く、ドイツよりも危機感が強いらしかった。 これには理由があって、欧州の猛暑といえば誰もがすぐ思い出すのが2003年の夏である。私がドイツに来てから最初の2回の夏が穏やかなものだったためもあり、その年の欧州の気温にはたまげた。 しかしそこは南国生まれの私、おまけに冷房嫌いの体質とあって、同年春に日本で大きな手術を受けた後だったにもかかわらずへっちゃらだった。 一方、西欧・中欧の人は寒さには強いが暑さには慣れないため一般市民の中からかなり体調不良を訴える人が出て、ことに高齢者の病院搬送が相次いだ。 この問題が最も深刻で、そして被害が最大だったのがフランスだった。 その理由はフランスの暑さがドイツのそれよりひどかったためではなく、8月のフランスには誰も仕事をしている人がおらず、医師や看護婦も当然の権利として一斉に夏季休暇をとっていたためである。 大勢の患者が運ばれてきても、治療はおろか脱水症状の老人に水を与える人すらいない。それで死者は1万5千人に達し、病院の体制もだが、なんの措置も講じず(バカンス先で)手をこまねいていた政府役人に対しても非難が雨・あられと注がれた。 これに凝りて今回は早い時期から、医師や病院職員は順番に休暇を取ることが義務づけられていた。 しかしその2003年の夏も今年の酷暑も、1540年の熱波に比べれば「顔色なし」といえる程度なのだそうだ。 その比較例として、降雨は26週間ゼロ、牧場の草は太陽に焼かれ畑の穀物は枯れ、いくらか収穫があったとしても川に水がないから水車は回らず、ということは製粉所が機能しなかったわけである。 ブドウは畑で干し葡萄になり、ブドウの収穫量も劇的に落ち込んだが、強烈な日光のおかげで採れたブドウは甘くて糖度・アルコール分が高かったので、その年のワインは数百年後にもまだ飲むことができた、と複数の記事にあった。 (1540年のワインはバイエルン州ヴュルツブルクのビュルガーシュピタル醸造所の地下室に、防弾ガラスに守られて保存されているそうである。) 人々は鎧戸を閉め切った部屋でモルフィネ中毒患者のように横たわっていた、とあるのは、屋外の温度が異常に高くて窓を開けられなかったためだ。 その暑さは数か月続いて12月のライン川の水温は泳げるほどに生温かった、って、これは本当かしらん。 最近までソ連の衛星国だった旧東独は、穀倉地帯として戦後の40年間ロシア人にひたすら収穫物を貢いできた地域だが、そのドイツ東部でも16世紀には農業を営むことが不可能となり他所に移住する人が増えたという。 そして、ああ、やっぱり、と、驚きはしないものの愕然としたのは、この猛暑・旱魃は天の祟り、すなわち邪悪な人間への神の怒りなのだと解されて、魔女狩りが広がったという話である。 魔女と見なされることが一番多かったのは当時は産婆であった。子供を取り上げる技術と知識を持つことから、生命を操る魔術を有するとされ、何か凶事が起きると彼女たちのせいにされて火刑に処された。 また、これについてはどの記事も触れていないが、1540年といえばルターの宗教改革から間もない時期でカトリック教会とプロテスタント派の対立が熾烈だったから、互いに相手の不信仰や反抗で神の怒りを招いたと罵り合っていたことだろう。 ところで2003年と今年の暑さは、いったい誰のせいでしょう。いや、さすがの私もメルケルの責任を問うつもりはなく、彼女の方も宿敵AfDのせいにはできない。 で、矛先が向けられているのはもっぱらCO2と窒素酸化物であり、それらを空中に放つ自動車や発電所であり、さらに追及していくと自動車メーカーや電力会社ということになる。 しかし左派にしてみれば、企業や団体が相手はでどうも攻撃に熱がこもらない。 ならばと目下はフォルクスヴァ―ゲン(VW)の前社長ヴィンターコーン氏に向けて非難の矢が放たれているが、VWの排ガススキャンダルの責任をとって辞任した以上、それを攻撃材料にしてもインパクトに欠ける。 それで今、どういう咎で罪人のさらし台に立たされているかというと、「脱税」の疑いである。年間収入が数十億円という人だから当然これまでも一般市民の怨嗟の的で、一方政府にしてみれば国家経済はVWの掌中にあるのでその社長をイジメるわけにはいかなかったが、辞任した以上あとは左派のお好きなように、というところ。 だけどフォルクスヴァーゲンのトップに上り詰めるほどの人物が黙って晒し者になっているはずがない。1540年の「魔女」とは違うのですよ。 同時に、「庶民の味方」のマスコミと左翼部隊の妬み・やっかみも16世紀よりも甚だしくかつ陰湿になっているので、この対立はなかなか見ものである。 それにしても、今年の夏がこんなに暑くならなければ、そしてそれがすべて自動車の排ガスのせいと弾劾されることがなければ、VWの前社長の暮らしもお気楽だったろうに、まさに「恨みは深し欧州の熱波」というところだ。 写真1.ヴュルツブルクのビュルガーシュピタル醸造所のワイン・ケラー。ここは試飲室だが、付属のレストランでは気軽に食事とワインが楽しめる。 「ビュルガーシュピタル」のビュルガーは市民という意味、シュピタルはホスピタルと語源が同じで、もともとここは貧者のための施療院が資金確保のために設けた醸造所だった。 写真2.1540年のワイン |