立石(たていし)は東京都葛飾区の中西部にある地名である。現在の住居表示では立石一丁目から立石八丁目まであり、人口は21,761人(2005年3月1日現在)。郵便番号は〒124-0012。葛飾区役所の所在地でもあり(立石五丁目13番1号)、葛飾区の行政の中心地を担っている。南には東立石が隣接する。 また、京成押上線の京成立石駅を中心とした生活エリアをまとめて立石または京成立石(けいせいたていし)と呼ぶこともある。この場合、行政上の町名でいえば立石や東立石などがほぼ該当する。 地名は立石八丁目37番17号にある立石様という石に由来する。地域の特徴は、昭和時代の情緒ある下町の町並み(レトロ感覚の商店街、町工場など)が現在でも残っていることである。
町内にある唯一の鉄道駅が京成押上線の京成立石駅である。駅前は現在、レトロな雰囲気の立石仲見世商店街の他、立石駅前通り商店街、スーパーマーケット(イトーヨーカドー立石店)などがひしめく状態であるが、周辺の路地は車の通行が困難なほど狭く、駐車スペースもほとんどない。このため、狭いエリア内で車の進入を気にせずに買い物できる気軽さがある。一方、建物の老朽化などの観点より京成押上線が高架化されるのに合わせた駅前の大規模再開発も検討されている。 町内の商業エリアとしてはこのほか区役所周辺(長崎屋ホームピック・サミット・コジマなど)、奥戸街道沿いなどがあるが、住民は近隣の青砥駅周辺の商店やイトーヨーカドー四つ木店などもよく利用している。 周辺は、もともとは中小の工場が多い土地柄であったが、近年はその跡地を利用したマンション建設が盛んである。 町内には葛飾区役所、葛飾税務署、葛飾警察署、かつしかシンフォニーヒルズ(文化会館)、葛飾保健所、葛飾エフエム放送などの公共施設が集中しており、葛飾区の行政上の中心地である。町名の由来となった立石様、安倍晴明が勧請したと伝えられる立石熊野神社などの史跡がある。 一方、東立石は、中川湾曲部に囲まれた袋状の地域で、町内には本田消防署(ほんでんしょうぼうしょ)、渋江公園などがある。 なお、現在の立石・東立石・四つ木・東四つ木・宝町を合わせた地域は昭和40~41年(1965年~1966年)に住居表示が実施されるまで本田(ほんでん)と呼ばれていた。消防署の名はこれに由来している。
付近にかつて古墳があったことやその材質(房州石という凝灰石の一種)から、古墳の石室などと同様、千葉県鋸山付近より同地に持ち込まれたと推定されている。また、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたと考えられている。 江戸時代には高さ60センチ以上あり、「根有り石」とも呼ばれていた。名所として諸本(兎園小説、明細帳、江戸名所図会など)にも登場し、立石様の根を掘ったことで災いが起きたなどの伝説を生んでいる。 後に、立石様を欠いて持つと病気に効くという信仰や日清・日露戦争時に弾よけのお守りとして欠いて持つ人が現れたことや地盤沈下などの結果、現在では地表より数センチ程度の高さしかない状況である。
室町時代の1398年(応永5年)に記された「下総国葛西御厨注文」に地名としての立石が初めて登場する。 江戸時代、西葛西領のうち主に新田開発前から田畑のあった立石地域は隣接する向島地域とともに本田筋に区分されていた。この時代、この地域は米のほかにウリ(本田ウリ)やその他の農産物を江戸に供給する農村地帯であった。 明治に入り、行政上、東京府南葛飾郡に属することとなる。明治22年(1889年)4月、町村制施行によって江戸時代より続く立石村、梅田村、川端村、原村、中原村、淡之須村、篠原村、渋江村、四ツ木村、宝木塚村などの約十カ村を合わせて南葛飾郡立石村が生まれた。このとき合併前の村名は大字名として存続した。その後立石村は明治23年(1890年)、本田村と改称し、昭和3年(1928年)3月1日には町制を施行し本田町となった。 一方、近代化に伴い、それまでの農村地帯は急激に変貌を遂げていった。大正元年(1912年)、京成電気軌道が開業し、京成立石駅が開設されたことで、東京市部との移動が容易になった。また、大正12年(1923年)9月に起こった関東大震災では本所、深川、浅草などから発生した罹災民が比較的距離の近い本田村へ流入し、以降地域は急速に人口増加・宅地化した。なお現在でも、奥戸街道沿いなど方形に整然と区画整理されている地域がみられるが、これらは大正11年(1922年)頃から昭和初年にかけて、宅地化を目的に行われた耕地整理事業の産物である。
昭和7年(1932年)10月の東京市への編入、葛飾区の誕生により本田町は近隣の4町2村と合併した。そしてそれまで本田町内にあった各地域(以前の大字)はそれぞれ本田立石町、本田梅田町などと「本田」を冠して呼ばれるようになった。区役所は当初、現在の立石図書館付近にあった旧本田町役場を使用していたが、昭和12年(1937年)、本田中原町の現在のかつしかシンフォニーヒルズの位置に新築移転した。この区庁舎は昭和20年(1945年)2月の空襲で一旦消失、戦後同地に再建されている。 立石の戦後復興は早く、ほどなく駅周辺に闇市が自然発生的に現れた。これが現在の仲見世商店街につながっているといわれている。 また低湿地帯に属する立石地域は過去幾度もの洪水に見舞われる地域でもあった。その災害史の中でよく知られるのが昭和22年(1947年)に起こったカスリーン台風による被害であり、このときは町域の多くが水没した。 昭和35年(1960年)になると、京成電鉄が都営地下鉄1号線(現・浅草線)との相互直通運転を開始し、念願であった浅草や国鉄駅(浅草橋駅)への鉄道での直接アクセスが可能になった。また、翌昭和36年(1961年)には区内初のスーパーマーケットであるイトーヨーカドーがオープンしている。 昭和37年(1962年)5月には、葛飾区総合庁舎(葛飾区役所、区議会議事堂など)が落成した。跡地は一旦、区体育館などになった。 住居表示の実施により、昭和41年(1966年)、本田梅田町、本田町、本田立石町、本田中原町などより現在の立石一丁目から立石八丁目が誕生した。また先立つ昭和40年(1965年)には本田原町、南立石町、本田川端町などから、東立石一丁目から東立石四丁目が生まれた。
葛飾区総合庁舎(区役所、都税事務所、区議会議事堂など)(立石五丁目13番1号) 葛飾警察署(立石二丁目7番9号) 立石地区センター (立石七丁目1番1号) かつしかシンフォニーヒルズ(立石六丁目33番1号) 立石休日応急診療所(葛飾区医師会館)(立石五丁目15番12号) 渋江公園(東立石三丁目3番1号) 本田保育園(立石一丁目4番10号) 葛飾こどもの園(立石二丁目29番6号) 本田小学校(立石一丁目7番23号) 立石中学校(立石六丁目3番1号) 東京都立南葛飾高等学校(立石六丁目4番1号) 三菱東京UFJ銀行葛飾支店(立石一丁目16番15号) イトーヨーカドー立石店(立石一丁目18番3号) マツモトキヨシ立石駅前店(立石四丁目25番8号) コジマNew葛飾店(立石四丁目10番1号) サンクス立石駅前店(立石一丁目14番6号) マクドナルド京成立石店(立石一丁目22番3号) とんでん東立石店(東立石一丁目1番1号) サンマルクカフェ京成立石店(立石七丁目1番2号)
立石駅通り商店会
葛飾区役所 (右 click 一発コピーじゃ、してませんでしたけど、 後から手間暇掛けて手作業でやりましたがね。D.E.)
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