人間とは悲しくて寂しいものです。生きる悲しみと向き合って生きる人が多くなると、絶対に命の場のエネルギーが上がります。私たち医療者でも生きる悲しみが全く分かっていない医者がいるのです。生を謳歌しているだけ。こういう医療者が多いと、命の場のエネルギーが上がってこないのです。「明るく前向き」ということに溺れることなく、やはり人生は悲しい、生きることは悲しいということを時には思い出しながらやっていくことが大事だと思うのです。
それから、私たちの未来にあることで確かなことは、死ぬことだけです。だから「死」に目を向けることです。それによって希望や生き甲斐が生きてくるのです。死からこちらを見てくると、生がよく見えてくるのです。死から目を背けないことがとても大事になってくるわけです。ですから、私たちが生きるということは、実は病気であろうとなかろうと、こういうことなのだといつも感じています。
これは、人間まるごとを見るホリスティック医学に取り組んでおられる帯津三敬病院名誉院長の帯津良一先生の言葉です。ホリスティック医学は人間まるごとですから、病だけではなくて、生老病死を全部扱うわけです。医療と仏教というまるで分野がちがうようでも、根底においては、仏教が問うてきた問題と大いに関係があることを教えられました。
さて、篠崎一朗さんは、37歳で癌に侵され、余命1年弱の宣告を受けました。その闘病生活中に出遇ったのが帯津良一先生でした。篠崎さんはお母様を癌で亡くされるという悲しみを通して、親鸞聖人の教えにふれられた経験を持っています。しかし、その後は多忙なサラリーマン生活のなかで、ある意味まったく親鸞聖人から遠ざかっていました。ところが、ご自分が末期癌だと宣告されるなかで、帯津先生との出遇いによって、「病いのままでも自分らしく生きていきたい」という気持ちが高まり、自分自身の問題として、改めて親鸞聖人の教えにふれることになったのです。それは、篠崎さんがたまたま蓮光寺の門徒であったことに起因していますが、それがどこで開花するかわかりません。そのきっかけを作ってくださったのが帯津先生だったのです。
篠崎さんはなぜ奇跡の回復を果たしたのでしょうか? 少なくとも親鸞聖人の教えが病気を治したわけではありません。しかし、親鸞聖人の教えに出遇わなかったならば癌という病いを克服できなかったことも事実でしょう。闘病生活では試行錯誤の連続でありましたが、命をとりとめた後も再発の不安が抜け切れない中で、ついに親鸞聖人の教えによって「罪悪深重の凡夫」であったことを深く自覚され、等身大の自分を受け入れられるようになったのです。生老病死は命の厳粛な事実です。そのなかでどんな状況であろうとも自分が自分として生きていける道があるという、これ以上力強い教えはありません。「本願力にあいぬれば、むなしくすぐる人ぞなき」ということを篠崎さんは証明してくださったのです。
篠崎さんは、すでに癌闘病記を自費出版されています。そして、その本を読まれた真宗の教えと無縁であった人たちも、『歎異抄』を通して親鸞聖人の教えに深い関心を持たれたのです。親鸞聖人の教えが現代に待望されている証ではないでしょうか。
自費出版の反響の中から、もっと親鸞聖人について語って欲しいという要望があり、東本願寺出版部の伝道ブックスとして、『人生に何一つ無駄はない — 末期癌から見えてきた世界』を刊行する運びとなりました。癌で苦しむ方々はもちろんのこと、様々な苦しみを持たれている方々が、親鸞聖人の教えに出遇い、生きる意欲を快復していただければ無上の喜びです。