ノーベル賞の授賞者がずいぶん増えたり、スポーツの世界でも科学的要素の取入れなどにより好成績を上げたりするなど、目覚ましいものが有りますが、一方いろいろな面でずいぶん評価が下がってきているということも有るようです。
この面では本当に実力が下がったのか、判定基準が日本の実力と合致していないのか、あるいは、劣っている面が必要以上に大きく評価されていることなどがあるのかもしれないとか、いろいろな要素が絡み合っているのでしょうが、実際の力はどんなものなんでしょうね。
ちょっと気になります。
数年前、夫が共同研究の支援をしている大学があるドイツ北部のクラウスタールでロベルト・コッホの生家を見て、コッホとその愛弟子だった北里柴三郎に興味をもった。 その延長で当時世界のトップ水準にあったドイツ医学界について少し調べると、1901年の第一回ノーベル医学賞以降多くの受賞者を出したこの国で、19世紀末から少なからぬ日本人が学んでいたこと、そして彼らの師である医学者の受賞にこれら日本人が深く関与していることが分かり、そのことがもっと広く認められてしかるべきだと思った。 この件を忘れかけていた今年の早春、やはり北ドイツに夫の出張に付いていったとき、宿泊のホテルで「シャリテ」という三部作の長いドラマを見た。 私たちはドラマをテレビで見ることは稀で、好みの違いと耳の問題で一緒に見ることはまずない。しかしホテルでは幸いなことにテレビの音量の最大レベルが限定されていたので、夫はTVにかぶりつき状態、私は離れたベッドから3時間あまり見続けたのだった。 ドラマの舞台はベルリン大学の病院「シャリテ」で主人公は若い看護婦。 向学心に燃え強い意志をもつこの女性が研究者に恋心を抱いたり、男性のみに許されている講義を聴こうと階段教室の階段下に隠れていて追い出されたり、という「女性の社会進出」のキャンペーン的な側面もあるのだが、何しろ世界に名をはせた医療研究機関が舞台とあって実在した著名な医学者が次々登場し、それだけでも十分に刺激的であった。 物語は1888年に始まる。当時の医学界の権威といえばもちろんロベルト・コッホ。それからジフテリアの血清療法で最初にノーベル医学賞を受賞したエミール・フォン・ベーリング。 コッホより一回り若いベーリングは後にベーリング社を創設し、その企業は今もフランクフルトの近くに本社を構えて優れた実績を上げている。 ベーリングの先輩のコッホが結核菌の発見でノーベル賞を受賞したのは、なぜかその発見から23年も経った1908年のことだった。ベーリングの方が早く受賞し、しかも後日企業家として大きな成功を納めたのは、このドラマにも出てくるが権門の令嬢を妻に選んだことと関係しているのかもしれない。 研究者の成功条件の4GのうちGlück(幸運)をまず確保したといえる。 もう一人研究に励む有能な学者がいて、その名をパウル・エールリッヒという。ベーリングと同い年の彼は同僚に7年遅れてノーベル賞を受賞するが、彼の方は幸運に恵まれていたとは言えない。第一にユダヤ人だったからで、ドラマの中でも学生たちが彼を見て「汚いユダヤ野郎」と罵る場面がある。 コッホのエピソードで面白かったのは彼とコナン・ドイルの遭遇だ。コッホが結核の療法を発見したというのでデモを行うことになり、その話を聞いたドイルが英国からはるばるやってくる。 ドイルが医師だったことを私は忘れていたので(考えてみれば、それでシャーロック・ホームズの事件を語るワトソンが医者だったのだ)、ドラマ中に鳥打帽をかぶりツウィードのジャケットを羽織った男が出てきたときは、誰だろうと訝った。 コッホが行った結核患者の治療はそのときは失敗に終わり、ドイルは「ふん、この偽医者が」と嘲笑する。 綺羅星のごとき学者が出入りする広い研究室は歴史と伝統の色が深いが、実験装置が所狭しと並び動物までいるから猥雑な印象もある。 ジフテリアの治療に使う血清には馬が必要なので、なんとそれが研究室で飼われている。 その中で私の目にとまったのは、漆黒の髪にやや濃い肌の色をした痩躯の男性で、どう見ても東洋人、ということは当時の国際状況からして日本人らしい。 彼は常に上記の医師たちの後ろに影のようにいて、台詞は一言もなく顔がアップされることもないのだが、よく姿を見かけるので気になったのだ。 これはもしや北里柴三郎ではないか、と思った。北里は1885年にドイツに留学しベルリンで学んで1892年に帰国しているので、まさにこのドラマが描いた時期と一致する。 最初ちょっと疑いをもったのは、その感じが写真で知っている北里とは違ったからで、風貌でいうとむしろ秦佐八郎を思わせた。しかし秦は1873年生まれで留学したのは1907年なので、このドラマの時期にはまだ10代でドイツにはいなかった。 やはり影のごとき東洋人は北里柴三郎だったのだろう。この日本人が果たした役割は現在のドイツ医学界でも知られているので無視できなかったが、そこで日本人をドラマに含めると話が込み入って焦点がぼやけるため、ドイツ人学者の背後霊のような扱いになったのではないか。 北里博士については偉人伝などでその生涯を知る人も多いだろうが、話の都合上ざっと紹介すると、1885年から1892年までドイツに滞在し、ゴッホに師事して破傷風の治療法などに取り組む。ここで発見した血清療法を北里はベーリングとともにジフテリアの治療に応用し、それがベーリングの栄冠につながったわけである。 北里ほどの知名度はないが、上記の秦佐八郎も1907年からの留学で自ら研鑽を積むとともに、ドイツの学者を助けて同国の医学界に多大な貢献をなした。彼が来独したときにはフランクフルトに移っていたエールリッヒのもとで、いや、「もとで」というより20歳近く年長の彼の共同研究者として、梅毒の治療法を研究してその薬を開発した。 さらに赤痢菌の発見で知られる志賀潔の存在も大きい。彼は二度ドイツに留学し、いずれもフランクフルトのエールリッヒに師事した。 以上から明らかなように、20世紀初頭にドイツ人の医学者に与えられた栄誉の陰には日本人がいて、そのことはドイツ人同僚や師も認めており、彼らは北里や秦の存在なしに自分の成功はなかったと述べている。 研究者の成功条件のもう一つのGであるGeduld(忍耐・根気)ならば、これは日本人のお家芸ともいえた。 数々の発見や開発において実際にはむしろ日本人医学者の方が主導権を握っていた場合すらあるのに、なぜ日本人がノーベル賞の栄誉に浴することができなかったかについては後日議論がなされ、当時は共同受賞という方式がなかったこと、ドイツという国で研究がなされ論文もドイツ語であったことなどが理由として挙げられる。 しかし、これは恩あるドイツとの関係や国際世論に鑑みて日本人が敢えて口にせずにいたけれど、19世紀末から20世紀初頭の欧州では明らかに東洋人への侮蔑があり、実力で勝負できるはずの学界にもそれは存在したようだ。 極東の島の新参者が欧州先進国の人々と互角の成果をあげ、時に勝ることさえあるとは、当時の欧州人には信じがたく、その確たる証拠を見せられた場合には蔑視はやっかみに変わったのではないか。 日本人が差別されたという明白な証拠がない上に、当時の日本は欧米に倣おうと必死だったから「めったなことを言うでない」と誰もが口をつぐんでいたのだろう。 戦後人々がようやく廃墟から立ちあがり始めた1949年、湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞したというニュースに日本人は狂喜し、勇気づけられ、自信を回復させていった。 しかしその背後には、明治から昭和初期にかけて世界の舞台で「縁の下の力持ち」に甘んじてきた同胞の存在があったことを心に刻まねばならない。 湯川博士のあとはぽつりぽつりだった日本人ノーベル賞受賞者は21世紀に入って急増しており、これは日本の学界のレベルが上がったというより、ようやくその実力が公平に評価されるようになった結果といえよう。 今年初め、私はフランスの歴史家・人口学者で日本でも話題になったエマニュエル・トッドの「世界の多様性」という大書を読んだ。 この著は世界の家族制度とそれが及ぼす教育への影響、特に識字率と結婚年齢の関係に注視し、日本とドイツの家族制度には偶然の顕著な類似があって、それが両国に発展をもたらしたのだと説く。(因みにトッドは名うてのドイツ嫌いである。) 日本の家族においては、巷に流布している女性蔑視説とは逆に女性は比較的高い地位にあったというのだが、これは社会活動などを意味するのでなく、家庭における子女教育で母親が担う責任が重視されていたことを指し、このことが日本人の識字率を上げて「文化的潜在力」を高めていったのだという。 「もはや戦後ではない」と言われた1960年代に日本経済の急成長を目にした欧州先進国は、やがて日本に追いつかれるのではと恐れるようになったが、トッドによれば経済成長は社会現象の一端に過ぎず、国の礎となる文化のレベルに関しては、追いつくもなにも「日本が欧州に遅れていたことは一度もないのだ」と断言している。 開国により日本の目が世界に向けられるようになって30年かそこらで日本人医学者が着々と成し遂げた業績を見れば、トッドの言葉は決して依怙贔屓や誇張ではないと認めざるをえないであろう。 写真1.ドラマ「シャリテ」の登場人物 写真2.北里柴三郎 写真3.秦佐一郎とパウル・エールリッヒ |