母も女学生のころまでの話はかわいいなあと思います。
でも、いつまでも甘やかしていた父親と兄たちをちょっと恨んでしまいます。
先週、実家へ行った帰りにイヤリングを片方なくしました。
野球の応援の時は大丈夫だったのに。
無性に腹が立つ!!(笑)
歌」とくれば、これはドヴォルザークの歌曲であるが、当方の身のほどからして「教え給いし」なんて気取った台詞でなく、「うちの母ちゃんが教えてくれた歌」あたりがふさわしい。しかし原曲は「ジプシーの旋律」とかいう歌曲集の中にあり、ジプシーがそう言うなら私の場合も別に構わないでしょう。 そういえば「母が教えてくれた歌」っていうと、「いい日旅立ち」の歌詞にもありましたね。いや、あれは「母の背中で聞いた歌」で、二番の歌詞が「父が教えてくれた歌」となっていたっけ。 谷村新司さんはインスピレーションを得た原詩を微妙に変えているんだ。でもこの人の才能には感嘆おく能わずで、真似とかパクリとかいうつもりは全くありません。 さて、私にも母に教わった歌はいろいろあって(原題は英語ではThe Songs My Mother Taught Meで、歌は複数なのです)、母は童謡が好きだったので「あした(おかあさま泣かずにねんねいたしましょう)」とか「富士山(頭を雲の上に出し)」など、当時は学校でもあまり教えなくなった歌をよく口ずさんでいた。 別に清く上品な歌のみを好んだわけでなく、「私十六満州娘 春よ三月雪解けに・・・」などというちょっとコミカルな歌もレパートリーにあった。迎春花<インチュウホウ>という花があることを知ったのも、この歌からである。 (迎春花はオウバイ<黄梅>のこと。zosanの「路傍の花」にも登場しています。) こんな風に母にまつわる思い出を綴っているからには、亡き母親を偲んでいると人は思うだろうが、とんでもない。全然偲ぶつもりはない。私は母が大の大の大嫌いなのだ。 くちべにがいさんがお母様のことでしておられるような苦労は私もほとんど味わった。くちべにがいさんとは母親への恨みつらみを三日三晩語ってもなお話は尽きないだろうと思う。 わが母はさらに、子供の差別という大きな過ちを犯した。弟、すなわち自分の長男を溺愛・盲愛し、それが元々ひ弱な男をますます軟弱な甲斐性無しにし、四捨五入すれば70歳になる年齢で姉に金をせびるような情けない人間にしたのである。 一方で妹、つまり次女は軽薄で学業不振で家の恥だと罵り、「あの子を生んだのが間違いだった」などと母親の言葉とは到底思えない暴言を吐いて平気だった。 子供のない私に教育方針などというものを語る資格はないのだろうが、一つはっきり言えるのは、子供を差別することは兄弟姉妹の関係を破壊するということである。 兄弟は他人の始まりどころか、差別する親のもとでは兄弟姉妹は「他人の方がマシ」という関係になる。 それを平然とやったのがわが母だった。権利はすべて長男に、義務はドサっと長女に、次女は無視、というパターンは生涯変わらず。 長女がドイツに移ってからも、何か気に入らないことがあると「帰って来て」という。長男か次女に頼めば、というと「埼玉も横浜も遠いし」とのたまう。ドイツの方が関東より四国に近いというつもり? こんな老婆に理を説くのはアホな犬に芸を仕込むより徒労だと、ため息をつきながら成田行きの航空機に乗りこんだことが幾度あったろう。今思うと、彼女は利口な猫だった。 母親の死後知って新たに憤慨した話は多々あったが、もうその恨みもおしまいにしようと思っていた矢先の一昨年、貯金通帳を含めわずかに残った遺品を始末する前に見直していて、母が私を弟のために長年騙していた証拠が見つかり、まさに怒髪天を突く思いだった。 今年早々、昨年評判になった内館牧子の小説「もうすぐ死ぬから」を友人がお菓子と一緒に送ってくれた。その中に夫の葬式も済んでから彼に四十年来の愛人がいて子までなしていたことを知った主人公が「墓あばいて骨壺あけて、煮えたぎった油流しこんでやりたい」という場面がある。 死んだ母の娘への仕打ちを知った時の私も、似たような心境だった。 と、まあ、恨みを述べればきりがないのだが、そして「恩は石に刻め、恨みは水に流せ」などと聞いた風な説教垂れる連中には「私は恩も恨みも石に刻む」と宣言させてもらうが、それはそれとして、母の思い出が100%忌まわしいわけでもない。 母の口から出るのはその9割以上が悪口・不平・自慢の類だったとはいえ、中にはいくらかましな話題もあり、特に幼少期を過ごした台湾の思い出を語るときには可愛らしかった。 それはきっと台湾という国の好もしさに起因するのだろうと、見たことのない国に対し私は子供時代から親近感を抱いていたものだ。 その母がよく歌っていた中に故郷を想うワルツ風の歌があった。「南の国のふるさとはオレンジの花咲くところ」という歌詞で始まる。 これをよく聞いたのは私が小学校に上がるころで、私は何となく母はこれを台湾で覚えたのだろうと思っていた。 一つには母の他にこの歌を知っている人に会ったことがないからで、またわが家以外のどこでも聞いたことがない。半世紀余りのちインターネットの時代になって、何回か探してみたのだが見当たらない。 それが数週間前、どうせありっこないけれど、と思いつつ出だしの歌詞を入れて検索したら、おお~、ちゃんとあるではないか。驚いた。題は「心のふるさと」とある。 世に出たのは昭和11年、ラジオの「国民歌謡」として取り上げられたという。その翌年には日中戦争が始まる。 昭和11年といえば私の母は女学生だった。台湾で覚えた歌ではなかったのだ。 南の国のふるさとは オレンジの花咲くところ あの山かげの賎が家に 懐かしやさし母の面影 (作詞:大木惇夫 作曲:江口夜詩) 歌詞にある「賤が家」という言葉も子ども心になぜか好きで、その意味も漠然と感じとっており、山かげの家でわが子を想う老女が目に浮かんだものだった。 そしてこの歌を歌うときの母の胸には、南の国である台湾が「心のふるさと」としてあったにちがいない。でなければ、ほとんど知られてないこの歌をあれほど繰り返し歌うはずがない。 のちに娘の私が夫の仕事を通じて台湾企業と親しく交わるようになり、中には娘・息子を日本留学させた取締役やカラスミ持参で訪ねてくる父子がいるのもその「ふるさと」からの贈り物かもしれない。 そう考えると、あの憎たらしい母をちょっとは許せるかなと思う今日この頃である。 因みに以下の三点は文字通り台湾からの贈り物です。 1、掛け軸、これはどうしてもドイツの家には合わないので日本で使っています。掛けてあるのは秋用で、合わせて春用もいただきました。(生け花に籠を使っているので、本来は床の間に直に置くべきで板敷が不要なことは承知しています。でもこれ、茶花じゃないし・・・) 2.この絵はどう見ても中国人の作品ではない、と思ったら、清の時代にジュゼッペ・カスティリオーネというイタリア生まれの宣教師が宮廷画家として描いたものとか。馬上の人物は阿玉錫(アユシ)と言い、蛮族を討伐したことで知られるそうです。 3.故宮博物院に行ったことのある人にはすぐ分かる翠玉白菜の模型。いろんな展示物の中でもこれが印象的だった、と話したことを覚えていて、持ってきてくれました。白菜の上のバッタが面白いですよね。(マウスは大きさを比較するため) |