瀧本哲史氏が急逝されたという。まだ40代の働き盛りだから、病とは恐ろしいもの。実は、これまで氏の著作は読んだことがない。ベストセラーとか、売れっ子評論家の本は、偏屈な僕の読書対象からはいつも排除されてしまう。胡散臭いのだ。そんなわけで、今回、初めて氏の著作を読んだ。刊行が2011年9月だから、あの「悪夢の民主党政権」がデフレ経済を賛美したド真ん中で書かれている。就職氷河期にあって、就活に苦労する新卒者向けに書かれているが、その内容は、若手から中堅にいたる組織人向けの一種の仕事論に近い。 氏は、この本で、投資家的に生きろ、起業者をめざせと書いているが、脱サラしろとは言っていない。むしろ、組織のなかで評価され、生き延びていく基本を、「生きていく武器」として伝授したかったのだろう。周囲と同じでは、医師や弁護士であっても「コモディティ化」され、安く買い叩かれてしまう。スペシャリストとしての知見も、時流の変化に対応できなければ、たちまち陳腐化してしまう。「高学歴なワーキングプア」の出現という就職氷河期にあって、氏は、学生に対し、組織人であっても投資家のあたまで考えろ、イノベーターであれ、リーダーをめざせと鼓舞する。共鳴する部分もあれば、「そうかな」と思う箇所もある。何しろ、デフレのど真ん中、有効求人倍率が1以下の時代なのだ。 氏の生き方指南の基本は、「周囲の状況をよく見て、自分の頭で思考して、個性を伸ばせ」に尽きるだろう。その「あたまの働き方」の方向が、「投資家」なのだ。イノベーターや、マーケターのように考え、行動しろという。しかし、方向はそれだけなのか。 微細な差異を感じ取る感性も、異変に気付く心も大事だ。投資家的思考も必要だが、その思考が収めうる視界では、事柄の一部分しか見ることはできない。 万人が「投資家」である社会を夢見るのは、あまりに偏狭ではないか。これは、日本社会を米国流の市場経済、米国型資本主義に転換しろと言っているのに等しい。しかし、資本主義にも、中国型、EU型、日本型と様々なタイプがあるように、生き方にも、様々なオプションがある。投資家もいれば、芸術家も、教育者も、宗教家も、介護者も、セラピストも、農業者もいる。社会のあり方や生き方には、多様な選択肢があり、そこには、それぞれ固有の頭の働き方、論理がある。「投資家のあたま」を唯一のモデルとする必然性はない。このモデルそのものが、すでにコモディティ化されているのだ。 本書は、最後のところで、歴史や哲学、文学、自然科学などの幅広い学問を横断的に学ぶ「リベラル・アーツ」の重要性を語っている。 「リベラル・アーツが人間を自由にするための学問であるのなら、英語、IT、会計知識の勉強は、人に使われるための知識であり、奴隷の学問なのである」(文庫版p246) 激しく共感する。ここまで書けるのなら、生き方にも、資本主義のあり方にも、多様性を許容すべきではないか。瀧本氏風に言えば、多様性のもとで、常に差異を産出しなければ、生き延びることができないのだから。 |