異国に半世紀以上も住んで、母国語を耳にすることもなく過ごすのは最初のうちストレス溜まったでしょうね。
ベッガさんも今は慣れて平気でしょうが、日本語を聞きたい、喋りたいという飢え感はどうなんだろうと思ってしまいます。
でも芸術家とか、なにかやりたいことがあって行くのなら、そんなことは関係ないのかもしれませんね。
いつの間にか夏休みも終わり普段の生活に戻ったたばかりの週、どこからか妙なメールが届いた。送り主が分からないので迷惑メールかと恐る恐る開いたところ、さる財団からの追悼式の通知だった。 追悼の対象は大学の先輩で長くスイスのチューリッヒ在住だったYさんである。 この知らせに私は衝撃を受けるとともに、その財団に問い合わせようにも誰に宛てたらいいのか分からないので途方にくれた。 Yさんは画家で、それもスイスではかなり名が知れた造形作家・グラフィックデザイナーだったのだが、彼女と初めてあったのはほんの6年前のことである。 かつて英米文学関連の学部を主とした母校は米国の大都市やロンドンなど英語圏に同窓会支部をもっている。しかしこの40年間に他にも学部が創設され、今は欧州大陸に住む同窓生も増えたため、7年ほど前にスイスのチューリッヒに新たな支部ができた。 地理的にスイスは欧州大陸の中心であることと、チューリッヒの銀行で働く卒業生が支部長に適役だったことで、私の住む村からあまり遠くない地が選ばれたのである。 その最初の集まりのきっかけがYさんの個展だった。こじんまりした展覧会で、地理的に中心といってもハンガリーやオランダからでは距離があるから、集まったのは同窓生の夫君を含む10人足らずだった。 体つきも顔も丸いYさんは人柄も丸いというか天然で、芸術家らしく浮世離れしたところがあったが、昼食の席で彼女がスイスに住むようになった経緯を聞きながら、その人生についてあれこれと考えさせられた。 1934年生まれのYさんがスイスに居を定める前に住んでいたのは南ドイツのウルムで、さらにその前には、私たちの共通の大学を卒業したあと国立大で工芸建築を学び、そこからドイツに留学した。1961年、27歳のときである。 そこで後の夫君と知り合って結婚し、その郷里のチューリッヒ州に移り住む。配偶者とは20歳という年齢差があったので60代初めに未亡人になるが、そのまま創作を続け、亡くなるまで一人暮らしだった。 初めてチューリッヒで会ったとき、1961年といえばドイツと日本の距離は今日の比ではなくさぞ心細かったことでしょうというと、そうね、普通は電話もまず無理だし、緊急時は電報しかなかったわね、とさらっと答えた。 好印象を受けたので帰宅して(往復は夫に運転してもらった)、インターネットで調べて、彼女の夫君の方も、というか、むしろそちらの方が著名なデザイナーであったことを知った。 このM氏は彫刻家でもあったが手掛けた数々のポスターが素晴らしく、それら作品群に感銘を受けたことをメールに書いて送ったことからお付き合いが始まった。 私たちが個展で初めて会った翌年、Yさんは転んで怪我をし、スイス中部の州でリハビリ中というメールが来たので、(またもや夫の運転で)その施設に彼女を見舞った。およそ芸術やアーティストとは縁のないわが夫だが、なぜかYさんと気があって四方山話をしている様子が面白かった。 そんなことがあったので、ある年の春にスイス東部で休暇を過ごしたあと、フラウM(夫は彼女を夫君の名字で呼ぶ)を訪ねてみようよ、と夫が言い出し、チューリッヒ郊外のお宅にお邪魔することになった。 夫妻は芸術、それも抽象的なグラフィック等を専門としているだけあって、居間兼応接間にはコルビジュやスイスの彫刻家ジャコメッティの作品もあり、俗人そのものの私はついそれらの価値を想像してしまった。 しかしそれより驚いたのは、Yさんが美智子皇后と並んで座っている写真が本棚に飾られていたことである。 きけば御夫君が存命中だった50歳代に彼女が東京で個展を開いた際、皇后さまが鑑賞においであそばしたのだという。 そういえば皇后さまも同じ1934年生まれ。どういう縁なのかは分からないが、Yさんは皇后さまの卒論のテーマについても知っていて、そっちの方に興味を持っている様子だった。 私たちの母校の同窓会が半年に一度発行するニューズレターにYさんは一昨年「チューリッヒからこんにちは!」という文を寄稿しており、その中で、自分は「母と違って職業的に独立した人生」を築きたかった、と書いている。 今の若い女性には至極当たり前のことだろうが、私のような戦後生まれでさえ、20代・30代の頃には「嫁に行く」ことが第一目標とされる環境にあった。 戦前と違って女が高等教育を受けることへの反感や抵抗は薄れていたけれど、実際はその教育も「よりよい配偶者に選ばれる」ための道具であり、好条件で「もらわれる」ための「箔づけ」だったのだ。 戦前に生まれ戦中に少女時代を過ごしたYさんが、自分の母親とは違った人生を生きたいと思ったというのは、今日の女性が考えるほど当たり前ではない。 さてYさんとM氏の名を冠した財団から受け取った案内状には、追悼式はチューリッヒのリートベルク美術館でとあった。 そこは偶然にも1年前に夫と長沢蘆雪展を見に行ったところで、美術館といっても約7ヘクタールという広大な敷地にいくつかの別荘風の建物が散在し、その一つの建築物をもっぱら海外の芸術家の展示に使っている。 元は富豪が所有していた土地を最終的にチューリッヒが買い取って今日に至る。 展示の内容や美術館もだが、その敷地の美しさに夫は惚れこみ、そのあと何度か「また行ってみたい」と言っていた。 Yさんにも好感をもっていたし、その追悼式の場所が大好きなリートベルクといえば、夫は一も二もなく同行してくれるだろう。 その話をしようと思ったら、夫の方からわが家で購読しているスイス紙をもってきて、フラウMが亡くなっていたんだね、という。新聞の死亡通知欄に追悼式の知らせが掲載されていた。 私は昨年末までYさんと交信があったのだが、そのあともらったメールは全部文字化けしていて読むことができない。再送して下さい、とか、もう一つのアドレスに送って下さい、とかお願いしたが、返事がなく、そのうち手紙でも書こうと思っているうちに今年も半分以上過ぎてしまった。 一体いつ亡くなったのかという疑問は追悼式に行って始めて解けた。そこには同窓会支部長も来ていて、死亡通知を見たのは3月下旬のことだという。彼女は忙しいらしく、追悼式での種々の思い出話が一通り終わるとすぐに帰ってしまった。 式のあと別の建物で催された参加者の歓談会で日本人と思われる数人の女性を見かけ、どちらからともなく話しかけて談笑したが、誰も亡くなった経緯は知らない。 ただ、一人暮らしではあっても出版社や財団の人がよく出入りしていたので、孤独死というのではなかった。 式で挨拶した中年の日本人女性が着物の喪服だったので親戚の人かと思ったが、Yさんには親兄弟はもちろん従姉妹などの縁者もなかったという。 その女性の話では、Yさんは旧家の生まれで故郷の柳川の町を愛してはいたけれど、そこに留まるよりも遠くの地に羽ばたくことを選んだのだそうだ。スイスに住みながら彼女の記憶の中にはきっといつもあの柳川の運河があったことでしょう、と彼女は語った。 歓談会で私が話した女性たちは70代後半から80歳くらいで、いずれもスイスには50年ほど住んでいる。そのせいか、日本語がみんなちょっと変だった。1960年代の外国では、数年間日本語を耳にしないということもあったろう。 それにどの女性もYさんのサークルに属するだけあって芸術関係の仕事をしており、舞踏家あり振付師あり、書道の先生もいた。そして配偶者は大学で日本学を教えるなど、何らかの形で日本と縁のある人達だった。 そんな話をしている私のそばで夫の方はワイングラスを手に、もっぱらYさんの南ドイツの大学での同窓生と歓談している。やはり工芸デザイナーや建築に関わっている卒業生が多かった。そして夫は、普段は接することのないそういう異業種の人の話に大いに興味を惹かれたという。 その夜は、夫がワインを飲むことを予測して予約してあったチューリッヒのホテルに泊まり、翌日帰宅してインターネットで新聞の今年3月の死亡通知欄を探した。 やはり死因には触れていなかったが、特定の信仰をもっていたわけではないので遺体は荼毘に付して、チューリッヒの町を流れるリマット川に撒かれたとあった。 夫にそれを見せると、うん、前にお宅を訪ねたとき、遺灰はリマット川に流してもらうと言っていたよ、とうなずいた。 故郷の柳川の運河というのでは手続きが面倒で多くの人を煩わすことになるし、それよりも長く縁のあったスイスの川の方を選んだのだろう。 最後の最後まで、自立と自由を貫いてYさんは逝った。 写真は 1)チューリッヒを流れるリマット川 2)追悼式はこの赤い建物の半地下で行われた 3)歓談会があったのは夏季にのみ使用されるこの建物。これは日本人建築家の坂茂氏の設計だという。 |