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2022年02月14日(月) 
 地域情報化の成功事例の中に、必ずと言ってよいくらい取りあげられるのが、1990年代に始まったアメリカ・シリコンバレー地域(1)の地域活性化プロジェクトである。

 当時、どん底にあったアメリカ経済の中でも、ひときわ大きな打撃を受けたハイテク先進地が、情報化を活用して地域全体のポテンシャルを回復し、持続可能な成長を続けているモデルは、全世界から羨望のまなざしで注目され、世界各地にその模倣的なプロジェクトを生み出している(2)。

 しかし、それらの取り組みの中から、第二、第三のシリコンバレーと言える成功例は、いまだ出現していない。そこには、他所には容易にコピーできない潤沢な社会的ネットワークの存在があり、またそれを活かすために活動した市民起業家という橋渡し役の活躍があった。

 「弱い紐帯の強さ」という理論で有名なアメリカの社会学者マーク・グラノベッターは「シリコンバレーの最も重要な特徴は、そのネットワークにある、という命題ほどすべての人が賛成しているにもかかわらず、いまだに検証されていないものはない」(3)と述べて、現在はそのリサーチプロジェクト(4)を指導している。

 この調査でグラノベッターは、シリコンバレーにおけるネットワークの系統だった地図と、時系列で追った変遷を明らかにすることを目的としている。

 これによって、シリコンバレーの産業活動の外にありながら重要な役割を果たしている人々のネットワークが、どのように内部の人々と交流し、時にはその中に取り込まれているかが明らかになると期待されている。

 また、グラノベッターは、シリコンバレーを複製しようとする試みのほとんどが成功していないのは、個人単位だけでなくグループ単位で活発に交流する人的ネットワークに加えて、金融、商業、教育、政治などの制度が各々互いにつながってあっている特徴を作ることができなかったからであるとしている。

 ハイテク企業やベンチャー企業が集中的に立地するシリコンバレーは、世界でも有数の「富める地域」であったが、1980年代後半から産業の空洞化が深刻になり始め、1970年代から80年代前半までの間、全米平均の3倍以上もあった地域内雇用が、80年代後半から90年代には、逆に3分の1以下に落ち込んだ。地域経済は停滞し、企業や優秀な人材の流出がとまらず(図2参照)、投資も減少を続けて(6) 、非難の文化(後出)が拡大した。シリコンバレーを世界随一のハイテク都市群に育ててきた、地元有力企業のトップや自治体、大学のリーダーたちは、この事態をシリコンバレー存続の危機と受け止めた。

 アプライド・マテリアルズ社の会長兼社長のジム・モーガンとシリコン・グラフィックス社の会長兼社長であるエド・マクラッケンは、ビジネス、コミュニティ、及び政府のリーダーを集めてチームを結成し、起業家が集まるシリコンバレーを、起業家たちが持つ世界的な能力を活用して、教育、規制、産業面で地域が抱える差し迫った課題を解決する地域に変身させようというものであった。

 彼らは、シリコンバレーに生きづく「3つのポリシー」の利用と、変革の協働作業のために市民参加型のプロセスに関する「5原則」を定めた。3つのポリシーとは、①オープンネス(常に開かれた意識の下、新しい関係作りを目指す)、②フェアネス(企業の大小や社会的地位などに関わらず、常に対等な立場で議論する)、③パートナーシップ(常に「連携」することを目指して、信頼の上に相互の関係を深める努力をする)、という基本的なコミュニケーションの姿勢である。

 また、5原則とは、
① 十分に時間をかける
協働作業に弾みをつけるために十分な時間をかける。協働作業には紆余曲折がつきもので、前進するためにはこの課題に対して、あるときは許容して協調し、あるときには先導しながら協力するという柔軟な対応が必要とされた。

② トップダウンとボトムアップのバランスを保つ
地域のリーダーたちがリーダーシップを取って行うトップダウンと、協働作業に携わる草の根の市民との相互作用を活性化させた。
③ 大きなビジョンを持ちと実現可能なアクションを実行する
障害となる古い規範を打破するためには、大きな夢を抱くことが必要だが、しかし直ちに成果を生むものではないので、実現可能な一歩を応援しステップバイステップで実行することを奨めた。

④ インターネットの活用とサロンの役割
常にアイデアと人々を結びつけるためさまざまな道具を試し、インターネットなどを使って新しいパートナーシップを拡大していくことが大きな効果を発揮した。シリコンバレーにはさまざまな形で、市民起業家らが集う「サロン」があり、これがいわば「ひらめきの場」としての役割を果した。「サロン」は内向きに閉じてしまうことが多いが、シリコンバレーでは常に外に対してオープンであることが重要と考えていた。

⑤ 測定可能な評価と責任を明確に
測定可能な評価と責任を明確にする。発展的な参加型のプロセスにおいては、次第に参加者間で信頼感が醸成されるが、しかし信頼感が深まれば深まるほど、その成果への評価はあいまいになる。常に、節目節目で効果測定がなされ、達成度に関して参加者全員が共通の認識を持たなくてはならない。事前に責任を果すための情報開示が重要である。

 ジョイントベンチャーは、この3つポリシーと5原則のもと、プロジェクト全体を3つのフェーズに分けて、これまでにはなかったまったく新しい取り組みを実施することとなる。このチームの創設がのちにシリコンバレーに再活性化と持続可能な発展をもたらすジョイントベンチャー:シリコンバレーネットワーク(Joint Venture : Silicon Valley network、以下、JV:SVN)の母体となる。スタート時点でこのチームは、サンノゼ市長のスーザン・ハマー、カリフォルニア州上院議員のベッキー・モーガン、スタンフォード大学副学長のウィリアム・ミラーなどを加えたわずか数名であった(7)という。初期の段階では、主にウィリアム・ミラーの個人的な、しかし豊かな人脈(8)によって、このチームは構築されていった。

 ジム・モーガンとエド・マクラッケンは、1992年3月、シリコンバレー復興のために新たな成長のエネルギーを生み出す政策の検討を、広くシリコンバレーの住民たちに呼びかける。ジム・モーガンは、世界的なシンクタンクであるSRIインターナショナルにシリコンバレー地域の評価分析、課題の抽出を依頼した(9)。

 同時に、印刷業者のジョン・ケネット(10)、サンノゼ商工会議所会頭のスティーブ・テデスコ、広報担当部長のブレンダ・ボルジャーが、ジョイントベンチャーの事務局として動き始めた。

 サンノゼ市長のスーザン・ハマーは、首席補佐官のボブ・ブラウンシュタインに促される形で、20以上の自治体が存在する広域シリコンバレー地域において主導的役割(11)を果たして欲しいという、産業界の依頼を引き受けた。彼女の協働的リードにより、他の自治体は安心して、新しい地域課題に立ち向かうことなった。

 サニーベール市の副市長トム・リューコックは、自らが率先してビジネスのリーダーたちとの協働を仕掛けた。彼は「(この経験で)ビジネスと政府をあわせたよりも大きな何かが起こっていることがわかった」と述べている(12)。

 SRIインターナショナルの調査レポートは『危機にある経済』として、1992年7月、サンノゼ市のホテルで発表された。ここには、シリコンバレー各地から1,000人を越える地域のリーダーたちが集まった。

 しかし、この時点では、シリコンバレーの地元紙サンノゼ・マーキュリーニュースが、将来の財政的見通しなどに対して極めてジョイントベンチャーに懐疑的であった(13)ように、参加者の多くも同様の印象を感じていた。このような懐疑心は、その後もしばらく残ることとなるが、市民起業家たちの努力によって徐々に解決されることとなる。

 コアメンバーは彼らに、具体的な手法は提案せず、①革新的なビジネス環境の実現、②労働生産性の向上、③知的労働力となる人材の育成、④効率的な行政サービスの展開、⑤コミュニティインフラの統合という5つの目標を提示した。これらは、そのプロセスにおいて、単独のセクターのみで実現できるものではなく、シリコンバレーに関わるすべてのセクターに広く協働を促す意図があった(14)。

 市民起業家たちは、シリコンバレーの多くのコミュニティに、永く蓄積されてきた「非難の文化」と闘わなくてはならなかった。トラブルの責任を他者に転嫁しようとする人が、世間に少なくないことは誰でも経験上よく知っている。シリコンバレーでも、ビジネスの人々に課題を問うと、彼らは政府を非難した。政府の人々に尋ねると彼らはビジネスを非難する。コミュニティの指導者に聞けば、彼らは政府とビジネスの指導者の両方を非難した。

 非難のゲームはコミュニティに対して責任を負わないことから永久に終わることがない。ヘントンは、「非難の文化の特徴を持ったコミュニティは急速に成長するにつれて複雑性を増す。そのようなコミュニティは以前には特徴的であった個人的な関係、信頼、経験の共有を失ってしまう」(15)として、非難の文化によるソーシャル・キャピタルの劣化を指摘する。

 シリコンバレーの市民起業家たちは、この難問に対して協働が非難よりも良いものであることを、成果を生む特定の協働作業に関係者を巻き込み、ひとりひとりに示していった。その作業は苦痛に満ちたものであったが、シリコンバレーは徐々に変化し、非難の文化を克服するに至った。

 また、多様なセクションの人々をジョイントベンチャーへの参加を促すことは、市民起業家たちが考えていたより困難な作業だった。このため、地域の主要な企業、産業を代表する理事会をつくる作業を実施した。ジョン・ケネット、トム・ヘイズ、ブレンダ・ボルジャーたちのよる中核チームは、シリコンバレーに従来から存在した産業、業界団体、技術グループによる社会的ネットワークを、ひとつずつジョイントベンチャーの理事会に招いて、二ヶ月に1回会議を持ち、ジョイントベンチャーの活動の設計や運営について検討した。

 ここでは、中小企業関係者、小売業者、建設業者、労働組合関係者がアップル、IBM、インテル、ヒューレット・パッカードなどの大企業と肩を並べて、第一段階をどうすべきかを集中的に議論した。その中では直ちに参加を表明する者も警戒的に対応する者もあったが、最後にはライバルさえもこの変革の連合に参加した(16)。理事会のメンバーは50人にまでなり、14ヶ月にわたり2週間に一回の会議を重ね、戦略的な青写真ができあがるまでの間、のべ1,200人の人々を巻き込んだ活動に成長した(17)。

 このように、シリコンバレーの市民起業家たちは、情報化による地域再活性化を実現するために、情報ネットワークを活用すると並行して、地道な努力を時間と労力を掛けて辛抱強く啓発を行っている。

 もちろん、市民起業家自身のネットワークは、インターネットのメーリングリストや電子会議室を利用して高度に効率化はされていたが、ジョイントベンチャーのようなネットワークを構築するためには、個人的な対面接触が必要不可欠であることを彼らは大変重要視していた。市民起業家たちは地域に一番必要なものは、可能性に対する自信と地域でのつながりを復活することによって、シリコンバレー全体で協働作業をスタートすることであると確信していたからであろう。

 ジム・モーガンとエド・マクラッケンの呼び掛けに応えた1,000人の地域リーダーたちは、1年間かけて、教育、医療、情報基盤の構築など広範な分野にわたって専門的な議論を行った。そして、1993年6月にその成果であるシリコンバレー再活性化の処方箋を、報告書“Blueprint for a 21st Century Community”『21世紀のコミュニティの青写真』(18)にまとめ、広く地域社会に発表した。

 かくして、1993年6月21日、地域経済の再活性化と生活の質の向上に寄与することを目的として提案された44の具体的政策を実行するためのコア組織として、サンノゼ市を拠点にJV:SVNが、NPOとして設立されるのである。

 法人設立にあたってJV:SVNは、『21世紀のコミュニティの青写真』の提言を実現するために、テーマ別に議論を進めていた13のグループそれぞれを、ほぼ同時期にNPOとして組織化した(19)。コア組織は民間主導、ボトムアップ型NPOで、事務局は極めて簡素な構造になっていた。

 JV:SVNは全体のコア組織として、最高意思決定機関として複数の組織代表者による共同議長会議を置き、企業、行政、教育機関、コミュニティのリーダーたち25名が理事会を設置、その下に具体的なミッションを持つNPO(20)が、それぞれの理事会や評議会により管理されていた。

 また、ネットワーク全体から、地区選出の政治家、企業幹部、コミュニティと労働組合やNPOのリーダーなど400人以上のメンバーからなるリーダー会議を設置し、相互の活動が協働・連携しやすい環境を構築していた。

 JV:SVNは、コア組織をコーディネーターとする柔軟なネットワーク組織である。いわば、それぞれの活動を通じた一連のネットワーク関係を通じて、人的、金銭的、組織的資源を連携して活動を行う、地域のバーチャル・コーポシーションと考えればよい。JV:SVNのコア組織と各NPOは、1年に一度、協定を交わして、分担する作業の定義・調整を行っていた。

 当初、周囲から懸念されていた財政面の問題は、1994年から95年にかけてJV:SVNのコア組織が17万ドル(約1,700万円、当時のレート1ドル=約100円換算、以下同じ)、各NPOはそれぞれに13万ドル(約1,300万円)から100万ドル(約1億円)超の年間予算を個別に持っていたことからもわかるように、多額の資金を、大小の企業、市、州、連邦政府、専門職組合、財団、そして個人などから提供されていた。これは、JV:SVNが明確な信頼を内外から受けていた証左である。

 その理由のひとつとして、JV:SVNの初代議長を務めたジム・モーガン、その後の引き継いだ州上院議員のベッキー・モーガンや共同議長を務めたシリコン・グラフィクス社社長のエド・マクラッケンをはじめとする、ジョイントベンチャーを主導する地域の大立て者たちが、各NPOの責任者を含めてしっかりとコミットしていることを示し、事実、積極的に活動を展開していたからに他ならない。

 シリコンバレーは、ジョイントベンチャー以前から、ほぼ10年毎に起こる不連続な変化を革新のネットワークで連続させて地域に持続的発展をもたらしてきた。1950年代からの防衛が、60年代からはIC(集積回路)へ転換し、ついで70年代から80年代にはパソコンに主軸を移した。そして90年代に目指したのがインターネットであった。

 そのいずれにおいても、シリコンバレーは世界最先端の地位を維持し続けてきた。ジョイントベンチャーの挑戦は、過去3回の変化を産業集積の活用という手法で乗り越えてきた弊害の蓄積(21)による社会バランスの乱れとの闘いであったと言える。市民起業家たちは、シリコンバレーの強みであった歴史的資源であるネットワークを再構築するによって新たなプラットホームづくりに成功し、地域再活性化を実現する大きな力となった。

 JV:SVNは、経済やコミュニティの問題に挑戦するために、トップレベルの企業、政府、コミュニティのリーダーを、地域ネットワークに結集した新しい仕組みに成長した。1995年7月、JV:SVNは13の事業組織を再編して、「ビジネス環境」、「ビジネス開発」、「起業家育成支援及び社会基盤と生活の質」の3分野に11の事業組織を構成する形となった。ダグ・ヘントンは、シリコンバレーが継続的な革新を維持することに大きく貢献した、地域協力の新しいモデルとそのアプローチとして、JV:SVNの3つのアクションを取りあげている(22) 。

 その第一は、1993年に多くのハイテク・ビジネスやコミュニティのリーダーたちによって率いられ、JV:SVNによって創設された非営利組織スマートバレーのネットワークである。スマートバレーは、地域の学校、地元自治体およびコミュニティ・グループをインターネットに結びつける触媒の役割を果たし、電子商取引、学校、図書館、政府といった分野で、地域を結びつける革新的な解決策を求めてシリコンバレーを実験場としてインターネットの普及を促進した。

 第二に、JV:SVNが、シリコンバレー地域の27の自治体とともに、インターネットを使ってその許認可手続きを合理化し、統一建築基準を作り「スマート許認可」システムを確立したこと。これらの革新は取引コストを軽減させ、地域での産業集積の成長を促進するとともに、政府がインターネット時代に入るのを助けた。

 第三に、JV:SVNは、教育によるルネッサンスを促進した。「CHALENGE2000」という、技術、企業、学校を結合する革新的なソーシャル・ベンチャーキャピタル・ファンドは、地域の学校に大きな影響を与え、生徒の成績向上につながった。

 これらの成果は、市民起業家たちが、ビジネスと政府との間に橋を架けることを支援する新しい協働的な市民社会の構築に成功したからに他ならない。シリコンバレーの市民起業家の一部は、ジョイントベンチャーの初動期から、米国内で地域再活性化に挑戦する他地域(23)の市民起業家たちとのネットワークを形成していた(24)。

 このような手法に自信を持ったJV:SVNは、1995年9月に世界の35地域の代表(25)を召集して、「CONNECT96」という情報化による地域再活性化ための地域間会議を開催した。以後、ノルウェーなどを経て、2001年1月には「CONNECT2000」が、日本で開催された。

 こうして、1990年代初めの深刻な景気後退(26)の後、92年から99年にかけてシリコンバレーでは25万人の雇用が増加した(27)。しかしその後、アジア向けの輸出の減少を発端として2000年前後から数年間の減速を経験し、その後2005年から続いていた雇用回復も2008年後半になって世界金融不安の大波を受けている。

 しかし、シリコンバレーに根付いた地域の協働的なネットワークであるJV:SVNは、最先端のグローバル企業における景況感とは別の次元で、「質的成長」「技能の不均衡の是正」「住みよいコミュニティの実現」を柱とした新しい改革プログラム「Silicon Valley 2010」(28)を2008年に発表し実践に移している。

 このように、市民起業家は、シリコンバレーの潜在化していたリソースとストックを、適度な閉鎖感のあるオープンな社会的ネットワーク(29)を構築することで、ソーシャル・キャピタルとして覚醒させることに成功した。そして、JV:SVNは、多様な地域のコミュニティをさらに「緩やかに」接続しながら、対応可能な領域を拡大・深化させ続けている。

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(1) シリコンバレーは、サンフランシスコからフリーウェイ101号線又は280号線で一時間ほど南下したあたりに広がる約1,500平方マイル(約3,890平方キロ)の広大なハイテク産業地帯である。行政区としてはサンノゼ市を有するサンタクララ郡を中心として、東はアラメダ郡のフリーモント市あたりまで、北はサンマテオ郡のサンマテオ市、フォスターシティ市あたりまで、南はサンタクルーズ郡のスコットバレー市、サンタクルーズ市あたりまでを含む。1996年のジョイントベンチャーシリコンバレーによる報告によると、この地域の総人口は約250万人である。人種構成は白人50%、ヒスパニック23%、アジア23%、アフリカ系4%と多様で、アジア系が比較的多いのが特長であり、また、23%の住民は外国生まれである。

(2) 自国内にシリコンバレーのような地域を作りたい政府は多く、その特徴として「シリコン」という言葉を使って、「ボッグ(沼)」(アイルランド)、「グレン(渓谷)」(スコットランド)、「フェン(沼地)」(イギリス)、「ビーチ(海岸)」(ベトナム)、「ワジ(かり谷)」(イスラエル)など数多い。わが国でも、シリコンレイク(諏訪)を始め、札幌、京都、岐阜など、シリコンバレーモデルを再現しようという地域は少なくない。

(3) シリコンバレーの社会的ネットワークが検証されていない理由としてグラノベッターは、社会学者が産業組織を分析対象にするのが遅れたことと、シリコンバレー全体に及ぶような大きな対象の系統だった分析はまだ確立されていなかっただけで、シリコンバレーというターゲットは非常に魅力的な研究対象であると述べている。

(4) スタンフォードのベクテル・イニシアチブによって設立された「シリコンバレーのネットワーク」に関する調査プロジェクト。

(5) ここでいう初動期とは、1992年3月の活動の開始から、シリコンバレーの再活性化のプラットホームとなったジョイントベンチャー:シリコンバレーネットワークが設立される1993年7月までとする。JV:SVNでは、これを第一段階の1992年7月のレポート「危機にある経済」の発表までと、その後の第二段階とにわけて整理しているが、市民起業家の活動の連続性を考えるとこれを一体的に捉えた方がよいと考えた。

(6) 加藤敏春は1992年から3年間、サンフランシスコ総領事館領事(経済担当)として在職中、シリコンバレーの復興に立ち会い、自著で「70年代、80年代において、年率平均7%の成長を見せていた雇用は、ほとんど増加をみせなくなり、逆に1986年から91年までの5年間で6万人の雇用が失われた。また1986年から91年の経済成長率は、わずか0.7%となり、企業収益、生産性とも大きく落ち込むことになった。(中略) 事実、シリコンバレーが再びダイナミックに発展を開始したのは、1992年以降、本来の経済、社会、文化構造に立ち戻り、世界的なイノベーションをリードし始めたときであった。」と述べている。
加藤敏春,1997,『シリコンバレー・ウェーブ 次世代情報都市社会の展望』,NTT出版, pp.12-13.

(7) ジム・モーガンは「われわれ二、三人で集まり計画を練った。しかし誰もそれを信じようとしなかった。」と回想している。Douglas HENTON ,John MELVILLE ,Kimberly WALESH,1997,"Grassroots Leaders for a New Economy: How Civic Entrepreneurs Are Building Prosperous Communities", Jossey-Bass; 1st edition, [加藤敏春訳,1997,『市民起業家―新しい経済コミュニティの構築』,日本経済評論社],1997,p143

(8) このときのコアメンバーの構成について、のちにミラー教授は「立場で動員をかけることなく、インフォーマルな関係にある信頼できる地域人に、少しずつ参加してもらうこととした」と語った。またこの手法が、「多くの議論よりミッションの実現」という雰囲気を作りだし、その後のJV:SVNの骨格づくりに貢献した」としている。(1997年11月6日、ホリディ・イン・サンノゼの講演にて)

(9) シリコンバレーの半導体素材企業であるアプライド・マテリアル社社長であったジム・モーガンの個人的な援助で調査は行われた。

(10) 後に、サンノゼ商工会議所会頭となる。

(11) ありがちなことだが、サンノゼ市はシリコンバレー地域の中でも特別に巨大(2000年の人口は90万人弱でシリコンバレー全体の3分の1を越える)で、他の自治体は常にサンノゼ市の動向に警戒をしていた。

(12) Douglas HENTON ,John MELVILLE ,Kimberly WALESH,1997,"Grassroots Leaders for a New Economy: How Civic Entrepreneurs Are Building Prosperous Communities", Jossey-Bass; 1st edition, [加藤敏春訳,1997,『市民起業家―新しい経済コミュニティの構築』,日本経済評論社],1997,pp.82-83

(13) 後にJV:SVNがまとめた『地域再活性化の学習』に触れられている。

(14) 日本企業現地駐在代表としてJV:SVNの設立に深く関わり、その後SVJ(日本版SVI)の代表を務めた伊東正明の講演(1999年2月10日「産官学コミュニティ連携による地域活性化」静岡)による。

(15) 前掲書(12),ヘントン,1997,p.126

(16) ヘイズは「痛みは共有され、人々は協働を開始すべく動機づけられた。もしこのグループを一年前に始めようとしていたら、うまくいかなかっただろう」と述べている。

(17) 前掲書(12),ヘントン,1997,p.182

(18) 「21世紀のコミュニティの青写真」については、次のURLにおいて要約が参照できる。
Joint Venture: Silicon Valley Network,1993,”Blueprint For A 21st Century Community”,
http://www.jointventure.org/ , http://www.jointventure.org/resources/publicationns…eprnt.html ,更新日不明

(19) のちに事業整理を行い、1995年6月に、11のNPOに再編された

(20) JV:SVNの下には、「ビジネス開発と起業家支援(BUSINESS DEVELOPMENT AND FOSTERING ENTREPRENEURSHIP)」として、「ビジネス・インキュベーション・アライアンス(Business Incubation Alliance)」、「企業ネットワーク構想(The Enterprise Network, Inc.)」、「シリコンバレー世界貿易センター(Silicon Valley Global Trading Center, Inc.)」、「防衛・宇宙コンソーシアム(Defense/Space Consortium, Inc.)」が、「ビジネス環境(BUSINESS CLIMATE)」として、「シリコンバレー経済開発チーム(Econom-ic Development Team)」、「税制・財政審議会(Council on Tax and Fiscal Policy)」、「規制改革審議会(Regulatory Streamlining Council)」が、「社会基盤と生活の質(SOCIAL INFRASTRUCTURE AND QUALITY OF LIFE)」には、「21世紀教育構想(21st Centu-ry Education Initiative)」、「環境パートナーシップ公社(Environmental Partnership, Inc.)」、「健全なコミュニティ・健全な経済構想(Healthy Community/Healthy Economy)」、そして「スマートバレー公社(Smart Valley, Inc.)」がある。

(21) 産業集積を強化しながら連続した経済的発展を実現してきた裏には、環境の破壊、人材の枯渇、人件費の高騰、物価の上昇、生活インフラの慢性的な不足という地域環境の悪化があった。シリコンバレーはこれを、集積経済のもたらす産業転換による生産性の向上と取引コストの軽減による発展が、弊害の顕在化を埋めてきた。しかし1980年代後半からの変化はそれを許さず、結果として協働型の変革を目指すこととなった。

(22) Chong-Moon LEE, William F. MILLER, Marguerite Gong HANCOCK, Henry S. ROWEN,2000,"The Silicon Valley Edge: A Habitat for Innovation and Entrepreneurship",stanford University Press [チョム・ムーン・リー,ウイリアム・ミラー,マルガリート・ハンコック,ヘンリー・ローエン,中川勝弘(訳),2001,『シリコンバレー なぜ変わり続けるのか』日本経済新聞社,上pp.77-78.]

(23) テキサス州オースチン、オハイオ州クリーブランド、カンザス州ウィチタ、フロリダ州、アリゾナ州など。

(24) 市民起業家ネットワークとも言えるこのつながりが、それぞれの地域での再活性化プロジェクトに大きな影響を与え合った。

(25) コネクト96には、スウェーデン、フランス、イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、スイス、ルーマニア、マレーシヤ、シンガポール、オーストラリア、韓国、日本、カナダ、アメリカの15の国から30数箇所の地域プロジェクト関係者が集まった。

(26) シリコンバレー地域だけで、6万人の雇用が失われた。

(27) 増加のほとんどは、ソフトウェアとコンピュータ及び情報通信の企業によるものである。

(28) Joint venture: Silicon valley network,2008,”Silicon valley 2010”,JV:SVN, http://www.jointventure.org/publicatons/publicatons.html

(29) JV:SVNには、それぞれの目的を持つ連携NPOに参加することでコミットできる。

『地域SNSによる地域情報化に関する研究』,2010,和崎宏

閲覧数398 カテゴリロンブン 投稿日時2022/02/14 08:45
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