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2006年12月04日(月) 
 川のことを土木工学の分野や行政では 【河川】 と呼んでいます。
河も川もどちらも 「かわ」 で、一般的に河は広いものを、川は細いものを指すようですが、明確な区分はありません。河川法で定められた河川の名称はすべて 「川」 がついていますが、これは川の方が一般的な文字だからでしょう。

 先ず河川の概念から説明しましょう。河川とは、地上に降った雨(雪)や地下から湧き出た水が流れる水路のことで、最終的には日本の場合は海に流れ込みます。また、そうした水が滞留している湖沼も河川の一部として捉えられています。地形的に雨水などが流れ込む範囲のことを流域といいますが、河川法では 【水系】 という言葉を使っています。淀川水系を例にとると、一般に宇治川と呼ばれている淀川本流に合流する木津川、桂川はもちろん、鴨川などの中小河川も、さらに、最大の水源である琵琶湖とそこに流れ込む愛知川 (えちがわ) や野洲川もすべて淀川水系に含まれます。そして、このような淀川に流れ込む 【支流】 のほか、下流部で分岐する神崎川や道頓堀川などの 【派川(はせん)】 もすべて淀川水系に属します。

 急峻な地形と降水量の多い日本では、河川の功罪が相半ばするといってよいでしょう。大陸の河川に比べて流速の早い日本の河川は、清冽な水質を持つため 「山紫水明」 という言葉が表すように世界に誇れる自然景観をもたらすほか、それほど手をかけずに飲料水として使うことができるし、農業用水などにも有用です。しかし一方で、水害というとんでもないものをもたらします。

 古来、日本人は、河川の恩恵をいかに多く受けるかに苦心し、いかにして水害から村や町を守るかに苦労してきました。つまり 【利水】 と 【治水】 ですね。このことに関しては日本書紀にも多くの記述が見られますが、特に治水は、人の命に直接関わる深刻な問題であるだけに為政者の最大の政策課題であったでしょう。ここでは詳しくは書きませんが、仁徳天皇の時代 (4世紀) には、有名な 「茨田(まむた)の堤」 の築造や 「難波(なにわ)の堀江」 の開削といった大土木工事が行われたと記されています。また、洪水という自然の脅威に晒された古代の人々は、それを鎮めるために 「人柱」 を立てて工事を進めたという記述もいくつか見られます。一方、利水についても各地に溜池をつくったということが書記には見られます。

 中世に入っても水との戦いは続きます。雨の少ない讃岐では溜池がたくさんありますが、弘法大師 空海がつくったという 「満濃池(まんのういけ)」 はその規模の大きさとともに、ロケーション (場所選定) の的確さと、【堰堤 (えんてい=ダム)】 の構造は、現代の土木技術に匹敵する内容を持ってます。ロケーションは、最も貯水量が多くなるように、いくつものが河川が合流する地点を選んでいることです。また、堰堤は石と土からできた 【ロックフィルダム】 ですが、力学的に有利な 【アーチ式ダム】 になっています。

 近世で行われた大きな河川工事としては大和川の付け替え工事があります。奈良盆地から流れてきた大和川は、大阪平野に入ると柏原付近で進路を変え、中河内 (なかがわち) 地方の中央を縦断する形で北上し、大阪城の東あたりで淀川に合流していました。そのため古代以前は、地盤の低い中河内には常に水が滞留し、「河内潟」、「河内湖」 と呼ばれる 【遊水池】 になっていました。中河内は江戸時代になって干拓が進み、「河内木綿」 をはじめ、農業が大いに発展しましたが、大和川は出水期には氾濫を繰り返し、甚大な被害をもたらすことも度々でした。困り果てた農民は幕府に陳情し、柏原付近から真西へ、堺の大阪湾に直接流す大規模な水路を開削したのです。この工事はほとんど自費・自力で、驚くべき短期間に完成させたと伝えられています。このような水路を土木用語では 【放水路】 と呼んでいます。

 近代になるとオランダから 「お雇い技師」 を招聘して、荒川や淀川の改修が行われました。それまでにも大きな河川では 「和流」 の河川改修が行われていましたが、近代土木技術を使うことで一気に進みました。淀川では中流域で蛇行していた河道を修正するとともに、下流域では大阪の都心部の氾濫を防ぐために、毛馬 (けま) 付近から 【放水路】 を開削しました。この放水路は 「新淀川」 と呼ばれていましたが、現在はこれが淀川の本流になっており、都心部を流れる元々の淀川 (大川)は 「旧淀川」 と呼ばれています。このとき新旧淀川が分岐する毛馬に水位差ができたために、旧淀川へ流れ込む水量を調節する堰は 【洗い堰】 と呼ばれるものになりました。洗い堰は琵琶湖の出口にある 「瀬田の洗い堰」 がよく知られています。また同時に、舟の航行を容易にするための 【閘門(こうもん)】 という水門が設けられました。閘門というのはパナマ運河と同じ方式で、上・下流2ヶ所の鉄扉で仕切られた部分の水を出し入れして水位を調節するものです。この閘門は、左岸側に新しくつくられたものが稼動していますが、昭和30年代まで働いていた明治時代の閘門が現地に保存されています。ここに書いた【左岸】 というのは下流に向かって左側のことで、したがって右側は 【右岸】と呼びます。

 このように我が国の河川の歴史をみてくると、治水に力点が置かれてきたことが分かります。明治以降は西洋の近代土木技術が導入され、水を可能な限り早く海へ流すという方法がとられました。特に戦後は、水辺(【護岸(ごがん)】と言います)をコンクリートや鋼鉄で固めることが最良の方法だと考えられるようになったのです 。また、河口部では高潮を防ぐ目的で 【河口堰】 がつくられました。こうした護岸の構造や河口堰は、確かに洪水や高潮には効果がありますが、水生生物の棲息環境を破壊することになりました。従来の護岸は石や木材といった天然素材でつくられていたし、水流を抑える目的で川の中につくられる 【水制(すいせい)】 と呼ばれる石を籠に詰めた突起物 (【蛇籠(じゃかご)】という) などによって河原に適度な水溜りができ、魚介類の棲家や産卵場所になっていました。その最もいい例が淀川にある 「わんど」 や 「たまり」 と呼ばれる、川の水が出入りする水溜りです。そこには天然記念物の 「イタセンパラ」 や 「アユモドキ」 などの希少魚類をはじめ、多くの水生生物が棲息しています。そうした場所はコンクリートなどの新しい護岸にするとなくなってしまうわけです。また、河口堰ではサケマス類の遡上を妨げるなどの問題が指摘されています。

 こうした環境問題が明らかになるにつれ、これまで頑強に 「水を流すこと」 に固執していた国の河川行政も徐々に変化してきました。つまり、自然護岸についても顧慮するようになってきたのです。また、都市内の河川では高い護岸で水辺に近寄ることができなかったものを、改築して水に親しめる護岸にする試みがあちこちで行われています。こうした【親水(しんすい)】性を高める事業は大阪の道頓堀でも行われており、先ごろその一部が出来上がりました。

 河川については 【砂防】 など、まだまだ言及したいことはありますが、あまり長くなるのでこの辺でお開きといたします。次回は何にするか考え中です。

写真は左から淀川の「わんど」、毛馬の「閘門」、道頓堀川

閲覧数2,443 カテゴリ連載読物 コメント10 投稿日時2006/12/04 08:45
公開範囲外部公開
コメント(10)
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  • 2006/12/04 20:49
    WRさん
     学生時代、社会学の先生が丹波における明智光秀の治水について話してくださいました。なんでも、自然堤防と遊水地、流れを阻害しない沈下橋や流れ橋を用いた自然と協調する治水だったというのです。
     明智光秀がそのような哲学を持って治水を行ったかは別にして、コンクリートや鋼材で固めた川よりも、土盛の堤防の川の方が、人が暮らす場として相応しいと思うのです。
    次項有
  • 2006/12/04 21:01
    鉛筆jamjamさん
    >コンクリートや鋼材で固めた川よりも、土盛の堤防の川の方が、人が暮らす場として相応しいと思うのです。

    あのカチカチ頭の国土交通省のお役人でさえ、上に書いたように考えを変えてきました。市民の声というのは、効果が薄いようですが続けていれば効いてくるものですね。漢方薬のように・・・。
    次項有
  • 2006/12/04 23:01
    すぶたさん
    最近、ホタルの生息に配慮した『ホタルブロック』が使われていると聞きました。
    効果の程はどうなのでしょうか?
    次項有
  • 2006/12/04 23:24
    鉛筆jamjamさん
    すぶたさん、長い文章を読んでいただいてありがとう。
    僕は残念ながら 『ホタルブロック』 というものを知りませんが、ホタルが棲息する環境、つまり 「適度に」 きれいな水と、餌になるカワニナさえあれば繁殖すると思います。 『ホタルブロック』 はそういう環境ができ易いものとして開発されたのでしょう。
    ちなみに、大阪の下水処理場では 【高度処理】 された下水でホタルの人工繁殖の実験をしています。
    次項有
  • 2006/12/05 15:07
    オメメさん
    日本では洪水の記録は日本書紀にはほとんど見られず。続日本書紀になってから記録されることが多いそうです。
    これは、それまで棚田であったのが、平地の水田が作られたからだとの説を読んだことがあります。
    わずか、数センチの高低差で見事に田に水を
    引くことは大変なことでしょう。
    参考になりました。
    次項有
  • 2006/12/05 16:54
    鉛筆jamjamさん
    オメメ先生、いいことを教えていただきました。ありがとうございます。
    次項有
  • 2006/12/05 17:15
    WRさん
     遊水池といえば、河内湖の干拓後の治水は大和川付け替えで対応されましたが、あの巨椋池の干拓後はどんな治水対策が施されたのでしょう。河川の状態も複雑ですし、気になります。
    次項有
  • 2006/12/05 17:24
    鉛筆jamjamさん
    巨椋池についてはよく知りません。
    いまは向島の団地などになっていますが・・・。
    調べてみると面白いかもしれませんね。
    次項有
  • 2006/12/05 17:34
    WRさん
     調べてみました(という程の手間はかけていませんが)。
     なるほど、淀川や宇治川と切り離された巨椋池は、水系の一部でなくなったため、生きた遊水池としての機能を失い、もてあましものになってしまったのですね。悲しいことです。
     あんなに大きな内水面はあれば、いろいろ面白いことがあったでしょうに。

    http://www.kinki.maff.go.jp/introduction/seibi/jigy…ct/02.html
    次項有
  • 2006/12/05 18:54
    鉛筆jamjamさん
    >あんなに大きな内水面はあれば、

    蓮池なんかにしたら観光資源になるのにね。
    次項有
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