jamjamおじさん、忙しいと言いながらブログ書いているし(笑)。
でも、最終回なんですが? ネタならもっとありそうな気もしますけれど。
そろそろネタも尽きてきたので、今回で一応この連載も終りにしたいと思います。いずれ新しい演題で再登場するつもりですが、最後になるので自己PRを兼ねてこの標題にしました。 バイパス (bypass) という言葉は迂回路を意味する英語ですが、国道のバイパスはもちろん、「バイパス手術」など医療の言葉としても使われているように、今ではすっかり日本語になってしまっています。しかしこの言葉が日本の道路に使われるようになったのはそう古いことではなく、昭和30年代後半ではなかったかと思われます。僕の勤めていた大阪市でも、昭和37年ごろに一部完成した国道176号の「十三バイパス」が最初でした。 当時の大阪は、交通渋滞(当時は「交通停滞」と呼んでいました)がひどくて、都心部はもちろん、郊外から市内への流入部にあたる各交差点は交通停滞の常習地点で、その解消が道路行政の最大の課題であったのです。 僕はちょうどそのころに大阪市に入ったわけですが、最初に与えられた仕事が十三バイパスの線形計算でした。そしてその次の仕事が「交差点の立体化計画」の立案でしたが、その中で考えた僕の最初の作品が下の写真に写っている「長柄バイパス」なのです。しかしこの名前は僕が付けたものではありません。単なる交差点改良だと僕は思っていたのですが、当時流行り始めた「バイパス」という言葉を、行政としては使いたかったのでしょう。 僕の立てた計画案は、3差路になっている橋の北詰交差点を、信号のない完全なインターチェンジにするもので、最も交通量の多い右折交通を乗せる高架道路と直進車を通す地下道を同時に建設するというものだったのですが、結果的には前者だけを建設することになりました。立案者としては残念だったけれど、財政的な面からみるとこれが最善の策だったのでしょう。 橋梁の設計は、当時新進気鋭の技術者であったM氏が担当され、「3径間連続鋼床版曲線箱桁」という、当時の日本では極めて珍しい最新の橋梁が出来上がりました。構造設計など全くと言ってよいほど知らない人間が描いた計画図を、電算が今のように高性能でなかった時代によくも設計ができたものだと驚くとともに、担当されたM氏には計画者として今も感謝の気持は消えません。 工事が完成したとき、新聞に「珍しい橋ができた」という意味の記事が写真とともに載りました。記事の詳しい内容は忘れてしまいましたが、「若い技術者の柔らかい頭でないと生まれないもの」というような意味のことが書かれてあったと思います。技術屋としての幸せを感じたことでした。 「バイパス」という言葉を聞くたびに、こんな若いころのことが思い出されて、技術屋としての幸せを噛みしめている今日このごろです。 これでこのシリーズの執筆を終わりますが、あまり面白くもないブログを辛抱して読んで下さった方々に心からの謝意を表します。ありがとうございました。 |