いや~、ええ話がいっぱいでしたね。
人間、沢山の人に支えてもらって今があるんですね。
お世話になった人には、感謝の心を持たないといけませんね。
私も、色々考えさせられるいいお話でした。
先日月木レーシング社長にお誕生日のお祝いメールをさせていただきました。 「ありがとう、応援してるよ。」 と返信メールをいただきました。 嬉しかったです。 HSSR時代からタイヤはずっと住友でした。 先日お話した1994年鈴鹿4耐準優勝の時だけお世話になった「丸高KICHOレーシング」がBSだったのでバトラックスを履く事に。 正直BSの素晴らしさに驚きました。 冷間時のグリップやMAXグリップは住友有利でしたが持続性がない。 BSは冷間時やMAXグリップは若干落ちますがスゴイ持続性でした。 準優勝した時は4時間タイヤ交換なしだったと記憶しています。 ショックでした。(こんなタイヤ相手に戦ってるんや・・) 耐久の後すぐにBSの走行会に勧誘されました。(耐久の褒美やと・・) 何も分からずペアライダーの「まさやん」に連れて行かれて?岡山国際サーキットに着くといきなり次期モデルのバトラックスを装着されました。 そこでまたもやショックを受ける。(悪い点が改善されてる・・・) すぐに住友関係者に現状を訴えました。 それからGPR50Rideenの開発が始まったのです。 BSの担当者からは「なんでやねん!お前アホか?ウチにしとけ。」と言われましたが今になってその意味がヒシヒシと理解できます。 話がそれましたが・・・。 その頃私は大学卒業を控えてとっても遅い就職活動をしていました。 ほとんどが自動車関係と一部アパレル関係。 「会社入ってもレースするの?」と聞かれて 「はい、もちろんです!」と答えた会社は全滅。(当たり前か) 大学自動車部で4輪の中山サーキット走行会を主催する時に景品をお願いしてまわっていた姫路の自動車関係のある会社からレース活動を前提で唯一の内定をもらいました。 同時期くらいにKHIテストライダーのお誘いが・・・。 悩んで玉津のKLCにいらした岩崎さんに相談に。 岩崎さんが勧めるアメリカで600か住友が勧める月木レーシングに移籍かで悩みました。 勇気のなかった24歳の私はアメリカ行きを断念。 姫路の自動車関連会社に勤めながらライダーとして月木レーシングで1年間お世話になりました。 震災の年でもあったのにその年は住友からタイヤが100%出たのでその分の浮いたお金で地方選鈴鹿6戦・英田6戦・美祢5戦・筑波1戦・ゼファー1戦・エリアSP4005戦と出まくりました。 英田でのブレーキトラブルで入院生活もしましたが鈴鹿の1レースを休んだだけですんだので、退院後の成績不振にもかかわらず前半戦の貯金でエリアSP400のシリーズチャンピオンを獲得させていただきました。(なんとこの時の副賞でグアム旅行行きました。) 月木レーシングでのミーティングでは平井部長の座学は非常に参考になったり、なんといってもマラソンが思い出深いです。(死にそうでした) マラソンの後は「チームグリーン体操」です。(平井さん、資料まだ持ってますよ!) 忘れもしないのが土砂降りの美祢3時間耐久レースに小林 聖選手と出場して優勝した時の事。 嬉しくて「社長、優勝しました。」と電話したら 「あたりまえやないかい!」と社長。 やはり社長はめざしている所が違うと感じました。 「絶対優勝するぞ!」と力みすぎて耐久本番の鈴鹿4耐2週間前のテストで鎖骨とアバラを骨折して迷惑をかけたり・・・。 4耐決勝の朝、当時GPZ1200でNK1を走っておられた元ワークスライダー宮崎祥司さんが医務室へ連れて行ってくれたら整体の先生が来てて「裸になれ」と・・。 肩からケツまでテーピングされて「シケイン進入で左ひざをあげろ。」と 言うとおりにしてみたら先端骨折していた右鎖骨の痛みに耐えることができる! その4耐ではBEETとの死闘の末、ラスト5分でガス欠というドラマでした。 でも社長が「興奮したわ、ありがとう、ご苦労さん」と言ってくださったのが印象的でした。 メカニックには「すまん、燃料ちゃんと入ってなかった。オレの責任や。」と言われて返事に困ったり・・。 あとで宮崎祥司さんが「オレはあの整体のセンセのおかげでプロとしてやってこれたんや。プロのライダーはどんな状況でもベストの走りをせなあかんねん。」とライダー道を教えて下さりました。 ライダーとしての厳しさを教えていただいた月木レーシング時代に感謝しています。 |