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会いたい龍が洛北にいる。
あれは大学院で修士論文を提出する年のことだった。何かとうるさい実家から逃れようと、静寂を求め下宿を探した。その時、大学で家賃が無料の物件を見つけた。しかも個室で朝食付き。思わず飛びついた。ただし、掃除が条件だった。
そこは高齢の和尚と若い修行僧、手伝いの女性2人だけの寺院だった。拝観者が歩く本堂内の床と廊下の拭き掃除、庭先にある瓦敷の歩廊のモップ掛けが下宿の学生2人の仕事だった。慣れない掃除ですぐに筋肉痛になったが、次第に楽しくなった。春は花粉でぞうきんが緑になった。いてつく真冬は拭いた直後から床が凍った。季節の移ろいは目に映る庭園の景色だけでなく、ぞうきんからも伝わってきた。
掃除の最後は非公開の堂内のモップ掛けだった。そこの天井に、最後の南画家と呼ばれる井上石邨(せきそん)の筆による「龍」がひっそりといた。それを「私だけの龍」として眺め、一人で悦に入るのが当時の楽しみだった。
その龍が辰年を迎えた新年早々に一般公開されるという。あの頃のような掃除をする体力はもうないが、研究に対する情熱は変わらない。知らないことを知るのは楽しいことだ。今年も楽しく生きたい。
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投書には敢えて寺院名を書かなかった。でも興味がある人は龍を描いた南画家の名前を調べれば、すぐにわかるだろう。大徳寺龍源院(りょうげんいん)という。1月6日から3月18日まで「京の冬の旅」で初めて龍の天井画は公開されるので、楽しみだ。
ちなみに、オリジナル原稿にはこんな一文を書いていた。
そこの天上に最後の南画家と呼ばれる井上石邨筆の龍がひっそりといた。画家はこの龍を描いて程なく亡くなったという話を聞かされたが、それを「私だけの龍」と眺め、ひとり悦に入るのが当時の楽しみだった。
字数制限で書けなかったが、お寺で書くつもりだった修論は、実は書けなくなってしまった。なぜならワープロ使用が禁止されたからだ。和尚に使用許可を求めたら、「ワープロって何や?」と聞かれ、「字を書く専用のコンピューター」と説明したのが悪かった。「そんなの電気代がかかるやろ!」の一言で禁止。いくら説明しても聞いてもらえなかった。
結局、朝の掃除は夕方になり、毎日、大阪の家から掃除のためだけにお寺に通った。大宮松原の知人宅から堀川通りを自転車で往復した。これも懐かしい。
修論にもこんな話があった。ワープロで仕上げた論文を提出する段になり、ワープロ禁止になってしまった。「修論本文は手書き」に拘るある先生が承知しなかったという。だから、私の修論は本文のみ手書き。要約と補注はワープロ印刷という不思議な体裁になっている。
今の時代から見たら、信じられない昭和時代の神話だ。
今年も相変わらずぼちぼちと書いてゆきますので、よろしくお願いいたします。
ちなみに、ちなみに、今回の元旦の投書は珍しく隣のやまむらさんにおほめをいただいた。読みやすかったと。
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日本人が一番日本語を知らない。コレソレアレの違いを聞くと、たいていの人は距離という。そんな人に実験する。頭の上にペンを置くと「コレ」という。前の机に置いてもコレ。一歩下がると「ソレ」。二三歩下がってもソレ。五六歩下がると「アレ」になる。ソレとアレの境界線は曖昧だ。
こんな日本人が多い。正しくは私がどこまでペンを持って下がっても「ソレ」だ。そのペンを黒板に立て掛ける。まだ「ソレ」だが、そこから私が離れると「アレ」に変わる。これが正解。コレソレアレは距離ではなく、話し手の近くか、聞き手の近くか、両者から遠いかの違いだ。これを留学生はちゃんと理解している。
ところが日本語は難しい。コレソレアレにはもうひとつのタイプがある。先述のモノがどこにあるか示すタイプを現場指示というのに対し、文脈指示というのがある。話の中に出てくるコレソレアレだ。「コレは秘密ですが」「ソレは秘密ですか」は情報が自分か相手かによって使い分けている。アレは話し手も聞き手も共有できる情報に使う。
タイガースがついにアレをした。お互いが共有できるからアレが優勝になる。では、その次は?「ソレ」ではない。もう「アレアレ」しかないだろう。
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【投書原稿】
徒然草に兼好が自讃を残している。白河院や関白藤原師実(もろざね)の随身(ずいじん)、今ならSPとして活躍した中臣近友(なかとみのちかとも)の例に倣ったという。この近友「容顔美麗」のイケメンで、院や関白の諸社参詣に随行し、競馬の騎手や舞人を務めたらしい。とはいっても兼好の自讃は、乗馬中の男が落馬するという予言が当たり皆から絶賛を博したなどの他愛もないもの。それなら私にも。
ある日三人で歩いていた時のこと。突然右人指し指の先に感触が。見上げると空に鳥。その落下物が歩行中の指先に当たったのだ。私も友から賞賛を浴びたことがある。
まだある。阪神ファンにとって伝説の甲子園バックスクリーン三連発を生で見たことだ。当時はユニフォームで応援もなく、我々は巨人ファンの三塁側で息を潜めて観戦していた。槙原投手の速球が見えないくらい速かった。そんな時にバース・掛布・岡田の三連発が飛び出した。思わず拍手喝采。気付いたら周りは阪神ファンだらけ。あの時の真っ赤になった掌の感触は忘れられない。
あれから幾星霜。一緒に行った当時のバイト先の喫茶店チーフは既に鬼籍に入られた。お店も跡形もない。38年振りの日本一を生きてこの世で見られたことも、新たに自讃のひとつに加えたい。
◆これがどう変えられたのか。以前から原稿に修正が加えられるのはあった。たとえば今回も原稿の人名を一箇所間違って「友近」で送ってしまったが、それは正しく「近友」に修正されていた。しかし、それらは部分的な手直しで、私が書いていないことまで書き足したりはしていない。ところが、今回はちょっと違った。
1.中臣近友の後に「[あるいは中原)」という補記があった。この投書を読んだ新聞社の方はきっと徒然草238段を確認したのだろう。従来の注釈ではこの人物「中原近友」とされてきたからだ。しかし、中原では伝未詳でよくわからない人物だった。それが間違いで、正しくは「中臣」であることを発見したので、さりげなく書いたのだが、余計なことを書かれてしまった。
中臣近友は白河院や関白藤原師実の随身(今でいうボディーガード)で乗馬や舞に長けていて、1088年には当時11歳で元服したばかりの摂関家プリンス藤原忠実に舞を教えたことが忠実父の日記(『後二条師通記』寛元2年2月28日)に記録されている。
「中原」が間違いで「中臣」が正しいのだが、ちなみに、この件は新発見だと思っていたが、小川剛生(『徒然草をよみなおす』、筑摩書房、2020年)がさらりと書いていたので、二番煎じになってしまった。
2.他愛もない自讃として鳥の糞が指先に当たったことを書いたが、あまりにも他愛なさすぎたのか、カットされてしまった。
3.「バース・掛布・岡田の三連発が飛び出した」と書いたのに、「バース、掛布、岡田の三者連続本塁打が飛び出し、阪神が逆転勝ちした」になっていた。逆転勝ちしたことはすっかり忘れていた。この投書を直した新聞社の方もきっと阪神ファンなのだろう。
4.「当時はユニフォームで応援もなく、我々は巨人ファンの三塁側で息を潜めて観戦していた」が、「巨人ファンが占める三塁側で息を潜めて観戦していた」になっていた。今の甲子園しか知らない人には、当時はユニフォーム姿での応援がなかったことを書いておかないと、その後の「気付いたら周りは阪神ファンだらけ」という文章が生きてこない。
掲載された投書は写真を載せておく。この後、掲載されなかった優勝直後の投稿もアップしておく。「アレ」の話を書いたのに、載らなかった。日本一のほうが載ってしまったから、もう駄目だろう。
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