書き込み数は86件です。 | [ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 ] | ◀▶ |
特に興味深かったのが、一柳家の「御家御先祖書写」。事実だとすれば、城の縄張が、どのように決定されたのかを考える上で貴重な資料だと思う。 秀吉による姫路築城の際、一柳直末(市助)が、秀吉の決定していた縄張を勝手に引き直した。市助は「御縄張悪敷御座候」「御縄張之通ニ而ハ御役ニ立不申候」という理由で、縄張りを勝手に変えた。秀吉は「左候ハ々問答いたし我等負候ハ々其方仕候縄張之通ニ可仕其方負候ハ々早速手討ニ可仕」と、その場で主従問答が行われ、結果、市助が勝利。秀吉は「仕形悪敷候共左候ハ々市助縄張之通可仕」と市助の縄張を採用。その後、 … [続きを読む] |
見野廃寺の近くに残る、戦時中に造られた御着と白浜を結んだ鉄道の痕跡(この鉄道については、以下のブログが詳しいhttp://blogs.yahoo.co.jp/reoreoreo6760801/folder/10…44744.html )。 以下、『きゞすの郷に生きて』より引用。 「 このころ、白浜海岸へ至る道路の西側、白浜町松原の南部一帯、三百万平方メートルの広大な土地に大阪陸軍造兵廠白浜製造所が突貫工事で建設されました。当時は軍事機密のベールに包まれ、写真撮影はおろか、一般市民は近づくことも許されませんでした。同工場では主に上陸用の舟艇を建造する目的で、終戦まで一部工場は稼働していましたが、戦後は賠償対象物 … [続きを読む] |
●姫路市立城郭研究室「姫路市中世城館跡調査報告(3)」 ・西土居構居 「二ノ丸」「ダシ」などの興味深い通称地名を残す。羽柴秀吉が英賀攻めに際して築いた陣城とされる。近世期に西土居に遊郭があったという指摘も興味深い。 ・平松構居 平松の北西約1kmに「津の宮城」(魚吹の構)が存在していた(『文化財見学シリーズ』26http://www.city.himeji.lg.jp/s110/2212786/_10509/_1…10512.html )。津の宮城と平松は、大津茂川を介して連絡できる。平松構居も15世紀終わりの赤松・山名戦争において使用された可能性があると思う。 ・松山城 松山城は、郡境と交通路を押さえる位置に … [続きを読む] |
[ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 ] | ◀▶ |