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2013年03月09日(土) 
 惣社集日記(『播陽万宝智恵袋』)によれば、大永元年六月に一ツ山大祭が、大永2年5月に三ツ山大祭が執行されている。大永元年9月に、赤松義村が室津において浦上村宗によって暗殺されており、当年、一ツ山大祭が執行されたとする惣社集日記の記述には、やや疑問を覚える。

閲覧数367 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2013/03/09 20:30
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2013年03月09日(土) 
 最近、発見されたという「宿村絵図」が面白かった。実態の不明な中世都市府中(姫路)や、織豊期姫路城下町を考えるうえで極めて興味深い絵図だと思う。宿村・国府寺村・福中村の位置関係が確定された点は重要な成果だと思う。一ツ山祭、三ツ山祭における戦国期の宿村・国府寺村・福中村の関係性が、宿村・国府寺村・福中村の消滅・縮小後の近世期においても継承されたのも興味深い。
 一ツ山祭、三ツ山祭は、播磨国守護赤松義村・晴政期に赤松守護家が主導して始まったとされる。播磨国守護赤松氏と府中の関係を考えるうえで、惣社の一ツ山祭、三ツ山祭は非常に面白い問

閲覧数658 カテゴリ日記 コメント2 投稿日時2013/03/09 20:06
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2012年10月20日(土) 
 小スペースの展示でもあり、それほど期待もしていなかったが、意外と面白かった。姫路市苫網・町坪に存在する、豆田遺跡・池ノ下遺跡は、11世紀から13世紀の集落遺跡で、集落の形態は散村だった。各屋敷地に隣接して存在する、屋敷墓の存在も興味深い。集村化は16世紀に行われたとされ、集村化の核になったのは町坪の場合は、居館(町坪構居)であるとされる(中川猛「姫路市内の15世紀の居館と村落」『城館から見た中世の播磨』)。集村化に伴い屋敷墓は消滅し、村墓に変化したようである。現在、東播磨では、両墓制が広く見られるが、西播磨では、両墓制はほとんど見たこと

閲覧数616 カテゴリ日記 コメント2 投稿日時2012/10/20 17:49
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2012年10月14日(日) 
 おおむね、赤松円心、則祐、義則の時代を扱い、当時の播磨の地域社会の様相がよく理解できる展示だったと思う。太平記絵巻なども展示されているので、赤松円心合戦絵十一巻(『看聞御記』嘉吉三年四月九日)が、いかなる内容の絵巻だったか、想像してみるのも一興だろう。
 播州并龍野領聞書に出てくる、白旗ヶ峯古城圖は初めて見た。19世紀の城郭観が窺える資料だと思う。
 たつの市の大寺山廃寺は、以前、登ったことがあるが、大寺山廃寺が城禅寺の比定地だということを、今回、初めて知った。
 山陽道上の山野里宿遺跡が興味深かった。中世の都市的な場は現集落と重

閲覧数445 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2012/10/14 22:12
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2012年10月14日(日) 
 姫路城の城門を移したとされる門(文化財見学シリーズ29 『飾東町』をたずねてhttp://www.city.himeji.lg.jp/s110/2212786/_10509/_1…10512.html )が無くなっていた。一瞬、場所を間違えてしまったかと思った。紛らわしいのだが、極めて近距離に二つ八王子神社があるのだ。しかし、場所を間違ってはいなかったのだ。姫路城の門はやはり無くなっていた。礎石だけは残っており、そこに高麗門がかつては存在していたことを雄弁に物語っている。姫路市教育委員会が設置した案内板も残っている。では、姫路城の門はどうなってしまったのか。一瞬は姫路市が修理のため、解体しただけなのでは

閲覧数1041 カテゴリ日記 コメント2 投稿日時2012/10/14 18:12
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2012年10月14日(日) 
・旅行中は、基本的にモーテルに泊まった。部屋の内部は、日本のビジネスホテルとほぼ同じ。予約無しで泊まれて、一人一泊、日本円で1000円~2000円程度と安価。ただし韓国のモーテルの外観は日本のラブホテルとほぼ同じだった。
・弁当という文化は、日本特有のものらしく、コンビニにもスーパーにも弁当が売ってなかった。ただ、GS25というコンビニには、弁当が売っていることに気付き、以後、極力GS25を捜すようにした。
・基本的に食べ物は辛い。食堂で出されたスープは激辛で、半分ほど残した。モーテルで食べた韓国のカップラーメンも激辛だった(パッケージは赤く無いので

閲覧数554 カテゴリ日記 コメント3 投稿日時2012/10/14 17:39
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2012年10月14日(日) 
 現在、残っている亀浦倭城は小規模だが、かつては主郭の北西と南に竪石垣で連結された独立的な出丸が存在しており、各出丸から洛東江までは外郭線が伸びており川湊を城内に取り込んでいたようである(李東注「釜山竹島倭城と亀浦倭城支城部の性格」『国際シンポジウム 韓国の倭城と大坂城 資料集』)。亀浦倭城には、複数の大名が在陣していたことがあり、独立的な出丸は各大名の陣所だったようである。主郭北側に馬出状の曲輪を二つ重ねるなど、縄張りは巧妙である。主郭などの石垣の上端部が崩れており、破城の痕跡とみられている(中井均「倭城」『歴史読本』827)。

閲覧数765 カテゴリ日記 コメント2 投稿日時2012/10/14 16:23
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2012年10月14日(日) 
 主郭の南東に伸びている竪土塁(上端部は竪石垣)の横に、最近出来た階段状の登山道が存在していた。しかし、全体的にかなりの藪だった。ひどい藪のため、主郭北側に連続して存在する虎口の開口部が分かりにくかった。一部の石垣が崩れているのは、破城の痕跡とされる(中井均「倭城」『歴史読本』827)。

閲覧数347 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2012/10/14 15:40
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2012年10月14日(日) 
 丘陵上に築かれていた子城(山麓部の先端に位置する独立的な小城郭)。子城の二段に張り出した石垣上には、三層程度の櫓が存在していたように感じた。山上の天守は、海側からは奥まった所に存在し、海上からは見えなかったか、見えたとしてもあまり目立たなかったはずで、代わりに子城に象徴的な大規模櫓を造ったように感じた。

閲覧数356 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2012/10/14 14:53
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2012年10月14日(日) 
 天守台の西側の馬出状の曲輪の出入口(虎口)は、閉塞されている。この閉塞に関しては、蔚山籠城戦後に豊臣軍によって閉塞されたという説と、豊臣軍撤退後に、朝鮮水軍が鎮城として再利用した時に閉塞されたという説が存在するようである(高田徹「韓国の倭城を歩く」『歴史読本』827)。閉塞石垣を見た感じでは、当時の日本の石垣技術とは思えず、鎮城期に閉塞されたように感じた。

閲覧数360 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2012/10/14 14:29
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