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2010年03月30日(火) 

荒木飛呂彦「jojoの奇妙な冒険」より。シゲチー

 

 

〝発見〟(意味の発見)としての芸術なんて、私たちを落ち着かない気分にさせるだけだし、良いのかどうかも解んないし、あんまり興味わかないな。

 

やっ ぱり世間的に認知された有名で〝確実〟 な芸術の方が安心して見れるものね。

〝確実〟?

どういう意味かっていうと、意味も 価値も固定されていて、解説や但し書きがたっぷりあって、美術年鑑なんかにのってる感じの芸術だね。

え?美術年鑑はお金払ったら誰でも乗せてもらえるの?

へ~。

…ともかく、再認とか再想起としての芸術だから、わざわざ意味を発見するなんてめんどーなコトする必要ないじゃない。

どこに持って行っても言うまでもなく通用するのだから、自分まで偉くなったような気にさせてくれるし。

こういう芸術なら知っていて教養としても誇れるし、所有してれば鼻も高いってものだ。

 

こんな確実な芸術があるのに、それとは別な芸術がある意味がわかんないなぁ。

好きでやっているとは言え芸術家だって有名になって売れっ子になりたいわけだろう?

人と同じことをしていたら目立たないし、なにか変わったことをしなきゃならないのだろう。

ま、売れるものを作れるようになるのも簡単じゃな いのだろうね。

ともかく有名にならなきゃね。脚注1

 

それにしても発見としての芸術ってなんなんだ?

芸術と言ったって所詮は一つの自明で通俗的な〝商品〟と言う意味に過ぎないのだから、いまさら意味を発見する必要がどこにあるのかなー?

もし芸術が相互主観的脚注2な意味しか持たないなら、おまけにその意味が未完で常に変化しているのなら、評価や価値の定まりようがないでしょう。

そんなアイマイモコなものにお金出せないじゃーん。

芸術も商売の一つでしょ?

売れなきゃ意味ないじゃん。

わかんなくとも有名ならいいけど、無名でわかんない芸術なんて不愉快なだけだよ。

 

なのになにゆえわざわざ芸術家は〝不確かな果て知れぬ海〟や〝道なき開かれた地平〟を 目指すのだろう?

発見と言ったって、いったい何を発見するというのだい?

まったく理解不能だね。

 

と、この前 シゲチーが言ってたよ。

 

 

 


脚注

  • 1:ちなみに、筆者は無名です。
  • 2:相互主観性 それはまず、自分の意識や自我の意識、自分の主観性というものが他者の主観性との関係を離れては存在しえない、という意味での相互主観性ということです。これは実は、客観と主観との関係・関連の問題なのでして、主観の反対語は客観だ式の言いかたは、国語辞典的な説明としてはそれでいいのかもしれないが、実際の役には立ちません。また、主観というのは客観の反映だ、というような説明も、間違ってはいないのでしょうが、釘が一本抜けている感じです。同じ反映だとしても、主観相互の媒介的反映だ、ということになるでありましょう。
    同一世代に属する人びとの主観相互の間にある共軛性脚注3が見られるのが普通であると同時に、どこまで対話を続けてみても埋め尽くすことのできない何かが相手との間に残る……つまり私は私であって相手とは違う、という主観の問題は、普遍と個の問題に対象を見つけようとする文学にとっては抜き差しならない問題になるわけです。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.196〕
  • 3:共軛性きょうやくせい 2つのものがセットになって結びついていること、同様の働きをすること。共軛の「軛」(くびき)は、人力車や馬車において2本の梶棒を結び つけて同時に動かすようにするための棒のことである。
 
  

 



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