2,663万kW/2,861万kW (09/19 13:35)
93%
■バックナンバー
■外部ブログリンク
■RSSフィード
RSS 1.0 RSS 2.0 Atom 1.0
■このブログのURL
https://hyocom.jp/blog/blog.php?key=163996
2011年12月17日(土) 

 

は 登り窯を使う。登り窯といえば何か特別なことと受け取る傾向もあるようだが、登り窯だから良いとか悪いと言うことはない。電気窯やガス窯を使うのとなんの 違いもない。絵を描くにも顔料を膠や油やアラビアゴムや合成樹脂で溶いたり、基底材も布や紙や板など多様であるのと同じことだ。もし白磁をやるなら電気や ガスの方が良いだろうし、土器をやるなら野焼きの方が良いだろう。〝偶然性〟を求める者もいるだろうし〝純粋性〟を求める者もいるだろうし、〝経済性〟を 求める者もいるだろう。それぞれにそれぞれの繊細な困難さが有り、それぞれにそれぞれの奥深い得難さがあるだろう。それはコンテクスト間の相対的な問題でしかない。そ れぞれの窯の間にあるのは要素間の差異だけだ。したがって自分の絶対的な主観で選択すればよいのだが、コンテクストをすり込まれた感覚には主観的な選択の とっかかりさえ掴めないものだ。巷はコンテクストであふれていて、人はその中から自分のモチベーションを選択する。だが、コンテクストからの選択はすでに 常にイントリンジックな選択ではないのだ。
 
房 も窯場も自分で建て、窯も築いた。だからといって手作りの趣味があるわけではないし手作りにロマンを感じることもないし自慢することでもない。建物を建てる、窯のレンガを積む、絵を描く、文章を組み立てる、歌を唄う、笑う、泣く、食べる。私にとってはみな同じ一つのこと。私はただつくる。私は生き物が生きるようにつくる。生き物の生は差異の様式だ。私はまるで最初の人のようにつくろうとする。最初の人が目に捉えるのは微細な差異の構造だ。そのために習慣 (context)の回路を一度解体し、アドホックに組み立て直した。コンテクストの外部、それは豊饒の海だ。豊饒なる意味生成の海だ。意味生成の快楽の海だ。気まぐれな無分別知をコンパスに、エピキュリアンの海へ、無分節の水平線の彼方へ、いざ諸共に漕ぎだそう!
 
ん なわけだから〝陶芸家〟と同定されたいと思ったことはないし、自分の作るものを〝陶芸作品〟と同定されたいとも思わない。カテゴライズされることには看過 しがたい居心地の悪さ・息苦しさがある。カテゴライズとは任意の既成のコンテクストへの暴力的な組み込みでしかない。ではコンテクストへ組み込まれることは、なぜ居心地が悪いのだろう?なぜなら、すべてのカテゴリはカテゴリー錯誤であるからだ。どのようなコンテクストであれ例外なく人間的な捏造(bricolage)であり、常に無根拠で相対的、恣意的で流動的、閉鎖的で否定的、そして通俗的で支配的だ。だが考えてみたまえ。どこに一つ一つの具体的事物に先行するカテゴリーが存在するのだ?しかし私たちは言葉で考える。あるコンテクストに属する者にとっては、コンテクストは自明なものであり自明であるがゆえに意味たり得るからだ。

それゆえ、コンテクストに組み込まれることには、なぜか一種の自尊心をくすぐる安心感がある。コンテクストへの反応には〝文化的〟という共示的意味もある。コンテクストに鋭敏であることは社会(context)を生き抜く上での有能性の指標とも見えるかも知れない。人は自らがたまたまワケも知らずにつくって(bricolage)しまったコンテクストに隷属し、互いにそれを強制し合うことで文化という幻影を構築し維持する。互いに文化という鎖で拘束し合うという万人向けの快楽を発明したのだ。コンテクストとは「あらゆる犬をかわいく鎖につなぐ」(ニーチェ)そのピカピカの鎖(chain)なのだ。
 
品は「名付けることのできない」差異的要素を含んでいる。「名付けることのできない」差異的要素を含んでいない作品は作品ではない。それは市場にあふれる〝わかりやすい〟品物との決定的な違いである。〝わかりやすい〟とはリテラシーの問題である。リテラシーと は、与えられたコンテクストを与えられたコンテクストにより読み解く、調教(discipline)による能力である。ゆえに〝正解〟が前提されている。たとえば、宗教のコンテク ストでは〝神〟が正解だ。経済のコンテクストでは〝Money〟が正解だ。マスメディアのコンテクストでは〝視聴率〟が正解だ。関西のコンテクストでは 〝おもろい〟が正解だ。正解とはそれぞれのコンテクスト内の大多数の人が共有することのできる(と思うことのできる)コンテクストだが、別のコンテクストでは正解どころか大不正解だったりする。それは多くの場合弁証法的な、つまり否定的な相互作用によって形成(emergence)される。そのようにして〝与えられたコンテクスト〟は偶然的でかつ恣意的なものだが、正解のためには不正解なことでも平気でできる強みがある。つまり一般的にはリテラシーとは反動的な力能のことを言うのだ。
品は「名付けることのできない」差異的要素を含んでいる。作品はコンテクストの裂け目なのだ。しかし作品は常にすでにコンテクストの内部でもある。コンテクストなくして作品たり得るいかなる力能も与えられていない。だが作品に含まれる「名付けることのできない」差異的要素は、作品の価値を決定しているのが作品の持つ力ではなく作品がたまたま属することになったコンテクストであることを暴露する。その時リテラシーは破綻するのだが、一般的に人は訓練の末獲得した自分のリテラシーが破綻することを好まない。なぜならドメスティケイトされることに喜びと誇りを感じる人間という獣にとって、そのような事態は社会的生命に関わることだからだ。それはただのオブセッションだが、万人のオブセッションである〝社会〟ではそれだけでは片付かない厄介なものであることも事実だ。コンテクストは人間にとってはもう一つの現実なのだ。〝もう一つの現実〟とは 生物・生理学的物質性とはかけ離れた言語的分節によって生じるフェティッシュの構造化したものだ。それは虚構のマトリックスだが、デメンス化した人間にとっては生存に関わる〝もう一つの現実〟と言うことだ。それゆえリテラシーを壊乱されると不快感を感じることになる。
 芸術はリテラシーの問題ではない。したがって正解などないし、正解による序列もない。正解を装う「工芸」や「陶芸」、「伝統」や「美」という既成のコンテクストに精彩はない。どんなにリテラシーに磨きをかけたところで意味作用のダイナミズムに近づくことはできないだろう。
 
は自ら作り出した(bricolage)意味システムの幻影(context)に盲従し隷従する。幻影は人の数だけある。多種多様なコンテクストがメリトクラティックにしのぎを削り合う。とりとめのない嗜好と欲望が二分法的にせめぎ合っているのだ。それは弁証法的な果てのない欲望のシステムだ。メ リトクラシー自体も〝与えられたコンテクスト〟の一つである。コンテクストは常に無数にあり、どのコンテクストも相対的価値しか持たない。あるコンテクス トの正義は他のコンテクストの不正だったりする。またあるコンテクストの価値は他のコンテクストの無価値であったりするわけだ。人は自分がたまたま属することになったいくつかのコンテクストの中でメリトクラシーの階梯をあえぎながら這い上がろうとする。メリットとの評価を求めてと主人(context)の顔を仰ぐ、その姿は微笑ましくも痛々しい。いや、むしろ滑稽だ。灰は灰に塵は塵に、死が私たちを意味(context)から別つその日まで、コンテクストの隷従者の果てなき努力が、勝利を得ることはない。けだし死は目覚めである。意味なきコンテクストの中に再生することだからだ。

う、 人生は無意味だ。そんなに驚くことでも訝ることでもない。本当は誰でも知っていることなのだ。ただ口にしないだけのこと。だから勇気を持って口に出してみよう。人生に意味はないと。コンテクストの呪縛はあっけなく破れマーヤのベールは足下に落ちる。人生の無意味は肯定だと言うことが解るだろう。人生の無意味を芸術は肯定する。それは言い換えれば人生の意味化を肯定することである。人生の意味化の能動性を肯定することなのだ。人生は無意味だからこそ限定なき意味化の能動性が許される。闇の中の光のように、芸術は意味の闇を肯定するのだ。
 
ザ ンヌは己を感覚する機械にまで仕立て上げようとしていた。機械は人間のようにコンテクストを読み取らないからだ。機械はすべての刺激(signe)を等価に感 覚するだろう。感覚する機械。それは意味の闇なのだ。それは多様性多数姓をひと飲みに肯定する。コンテクストを成立させている差異を肯定するのだ。そして 分かりきっている世界を、分かりきっていると思うことのできる世界を〝見えない場〟へ還す。そこで初めてイントリンジックなコンテクストの生成が始まるだろう。〝真の開始〟が可能となるのだ。
 
の関心はもっぱら、無意識裏で人を支配している「意味の幻」の出どころを突き止めることにあった。芸術はその出自の無意味において、意味作用の過程を加速しトレースする最適の触媒だ と直感したのだ。とりあえずこの世界内存在として、境界なき不可知の連続体としての環境世界を感覚し思考してみたいという衝動に従っていたいのだ。そのた めには用心深くコンテクストを逸らさなければならない。〝新コンテクスト〟はもとより〝反コンテクスト〟もすでにコンテクストなのだ。私はコンテクストを折りたたむ。 何度も執拗に。リテラシーは宙づりになり世界はその多様な姿を現すだろう。そして断片化した意味の漂う宇宙(うみ)を彷徨う、楽しき航海術を獲得してゆくのだ。 

 

 

 

 


◎用語解説

  • コンテクスト:context 文脈。語と語、文と文の差異的連関のこと。「語の意味は コンテクスト によって変わる。これを連辞関係と呼ぶ」
  • イントリンジック:Intrinsic  (その人に)本来備わっている,本源的な
  • アドホック:Ad hoc 「特定の目的のための」「限定目的の」などといった意味のラテン語。 ad hocのadは「~へ」「~について」、hocはhaecから派生しており「これ」「この」という意味(hoc < hic < haec)。adhocracy アドホクラシー「ad hoc + cracy> adhocracyはアルビン・トフラーの造語。1970年代に大流行。
  • ブリコラージュ:bricolage 適当に手に入るものを寄せ集め、何が作れるか試行錯誤しながら、適当に新しい物を作ること。つまり文化のこと。「あらゆる言説はブリコラージュである」デリダ
  • discipline:調教;責め,折檻。規律(正しさ),秩序,統制;風紀;自制;しつけ
  • emergence:エマージェンス 出現,発生。創発(複雑系)。部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れること。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。決定論的かつ機械論的な世界観が有効に見える場合でも、下層の要素とその振る舞いの記述だけでは上層の挙動は実際上予測困難だ。脳のニューラルネット。セルオートマトンなど。(参考:フレッシュペディア)
  • ドメスティケイト:domesticate〈人間などを〉飼いならす,家畜化する,栽培できるようにする〈未開人を〉教化する
  • オブセッション:obsession 強迫観念,妄想
  • フェティッシュ:fetish 物神,呪物, 盲目的崇拝物,迷信の対象、拝物愛の対象物、 (病的な)執着,固執
  • リテラシ-を壊乱:は不快感を生むケースだけではない。「お笑い」は〝リテラシーを壊乱〟してみせることでコンテクストから視聴者を爆発的に解放する職人芸だ
  • 触媒:しょくばい、 catalyser(英) Katalysator(独) 特定の反応の反応速度を速める働きを持ち、自身は反応の前後で変化しないもの。また、反応によって消費されても、反応の完了と同時に再生し、変化していない ように見えるものも触媒とされる。芸術の根源的な無意味さは意味作用を加速するが、そのものの無意味さは変わることはない。
  • 見えない場: コードの外部。「コードが、私より先にそのことを告げ、私に取って代わり、私が語るのを許さない」R・バルト

 

 

 


公開範囲外部公開
■プロフィール
chronosさん
[一言]
「カテゴリ」から入ってください。★は連載中、■は完結したシリーズで…