龍村仁監督の「ガイア*1シンフォニー」*2Vol.1~6がDVDで発売されている。 上映版Vol.1は1992年に発表されたが一昨年新作Vol.7が発表された。 DVD版Vol.1(2007発売)は上映版では含まれていたエンヤ*3の章、及び楽曲は全てカットされている。 ガイア仮説から50年あまり、ガイアシンフォニーVol.1から20年を経て、ガイアとは何だったのだろうとふと振りかえったりしてしまったべし。
私は私の無意識の構造に従っていたいと思う。 それは未知の星座だ。 おびただしい星のカオスが私に、有意のサインを読み取るよう促し(affordance)*4ている。 人は皆、無意識の領域においては一つの星雲だ。 そこにはいくつもの星座を読み取る可能性が潜在している。 一つの星雲は無数の星の相互作用(interaction)であるように、星雲と星雲もインタラクションだ。 そして、そのカオティックな全体が、私たちに読み取ることをアフォードしているのが星座(constellation)*5なのだ。 星と星、星雲と星雲の配置をコンステレーションと呼ぶのなら、人と人とのインタラクションも当然コンステレーションだと言うことだ。 私は無意識の構造の物象化としての作品や言葉を介して人と、また自分とも、インタラクションする。
一つの言葉が意味を持つためには他の言葉が必要だ。 例えば「ケツをまくる」と「ケツをとる」のように文脈内での相互関係で意味が決定される“連辞関係”においては、「まくる」と「とる」が「ケツ」の意味を顕在的に決定している。 おかげで採決の時に尻を隠したりしなくてすむわけだ。 また「年の瀬」 →「第九」→「大工」→「カーペンター」→「拒食症」→「エメチン」*6→「心毒性」→「気の毒」みたいな“連想関係”においては、同じ文脈内では排除されるはずの音・形・概念的な連想的連関語が言葉の意味を潜在的に決定しているのだ。 そのせいか年末には皆こぞって募金する。 言葉の意味は無数の不在の言葉に依存するのだ。 文脈もまた無数にあって、文脈どうしも連辞・連想的に顕在・潜在的に相互依存して意味圏を現象してる。 つまり自存的に存在する「意味」などない。 だから「私」が生まれるためには「あなた=他者」が顕在的・潜在的に必用なのだ。 この「私/あなた」関係とはどういうものか。 私達は偶然自分が属することになったいくつかの文脈内で、共振したり反共振したりインタラクションしながら文脈を形成する。 共振しあうにせよ反共振しあうにせよそれは「連辞・連想関係」という、顕在的・潜在的な文脈的関係性に依存しているわけだ。 それは〝文脈の論理〟つまり連辞・連想関係における〝納まりの良さ*7〟というほどのことなのだが、その納まりの良さを暗黙に演出しているのは常にすでに〝不在のあなた〟であるわけだ。
何らかの文脈の内部で「私」が「あなた」を、「あなた」が「私」を共起する。 つまり「私」も「あなた」も文脈依存的に創発するわけだ。 ということは、「私」も「あなた」も相互依存的で受動的で結果的で含意的で曖昧な〝なにか〟でしかないことになる。 ところが私達の意識には、自律的で能動的で原因的で明示的で自明な「私」が映っている。 「そんなことはない。私(という人格)は確かにここにいるではないか」というワケだ。 空気依存をふだん意識しないこと以上に、文脈依存が意識されるとはホモ・ロクエンス=言葉を話す生き物にとっては超むつかしいことなのだ。 これも私達の〝自然な感覚〟がいかに不自然な感覚なのかをよく現している一つの証である。
ガイアシンフォニーの世界観の中には、このような万物を“無自性”と捉える視点が内包されているようにも見ることができる。 奇妙なことだが、ガイアの考え方そのものは特別な知識がなくとも概ねすんなりと受け入れることができてしまう。 だが映画のエピソードのひとつひとつはどこか私達の自然な感覚からはちょっと縁遠い、なんとなく近寄りがたい話に思えてしまう。 ガイアに「私」が溶融するには、よほど常人離れした能力か深遠な特殊体験がなければ無理じゃないかと心のどこかで感じてしまうのだ。 これはおかしなことだ。 これではガイアの考え方そのものに矛盾する。 ガイアは私達の外部だと私達の〝自然な感覚〟は感じているが、私達はガイアの内部だ。 ならば私達の内部は外部であるガイアを常にすでに含んでいる。 境界を設定することは不可能なのだ。 なのになぜだろう? ……ガイアシンフォニーには文脈がある。 それは〝納まりの良さ〟と超俗の疎遠さを兼ね備えて、文脈的にそっと心をつかむ。
そこでこのように考えてみた。 顕在化したエピソードをオムニバス*8にすることで、連辞・連想関係を逆方向に働かせるわけだ。 それは加色混合*9のようにして、一つ一つのエピソードでは言い尽くせぬ不在の白色の文脈を浮かび上がらせようとしてるのかもしれない。 あるいは減色混合*10のようにして、一つ一つのエピソードでは言い過ぎてしまう顕在的な黒色の文脈を沈殿させようとしているのかもしれない。 一つの語が意味を持つための連辞・連想関係的な、その文脈においては不在の語群に依存するのとちょうど反対に、文脈依存的な私達を無数の文脈から文脈なきガイヤへと霧散させるやり方なのかもしれない。 ガイヤはでかい。宇宙はもっとでかい。 そんな得体の知れない巨大なものが私達にアフォード*11しているのだ。 知の不可能を知れと。 そして常に新しく終わりのない物語を紡ぎ続けよと。
◎用語解説
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