「趙州の言おうとしたことはこうだ。
彼は美が認識に守られて眠るべきものだということを知っていた。
しかし個々の認識、おのおのの認識というものはないのだ。
認識とは人間の海でもあり、人間の野原でもあり、人間一般の存在の様態なのだ。
彼はそれを言おうとしたんだと俺は思う。
君は今や南泉を気取るのかね。
……美的なもの、君の好きな美的なもの、
それは人間精神の中で認識に委託された残りの部分、剰余の部分の幻影なんだ。
君の言う『生に耐えるための別の方法』の幻影なんだ。
本来そんなものはないとも云えるだろう。
云えるだろうが、この幻影を力強くし、能うかぎりの現実性を賦与するのはやはり認識だよ。
認識にとって美は決して慰藉ではない。
女であり、妻でもあるのだろうが、慰藉ではない。
しかしこの決して慰藉ではないところの美的なものと、認識との結婚からは何ものかが生まれる。
はかない、あぶくみたいな、どうしようもないものだが、何ものかが生まれる。
世間で芸術と呼んでいるのはそれさ」
三島由紀夫「金閣寺」より 柏木の台詞
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