「あ!?」小さい人が指差して言う。 「あ?!」また違う方を指差して言う。 なんてみずみずしいシニフィアン。 いまだいかなる文脈にも侵されてない無垢の言葉。 それは根源語。 真(まこと)の言葉だ。 ... 私は「あ!?」のオーソリティーだ。 真正の「あ!?」を発する秘法を会得した少数者だ。 私こそ「あ!?」の救済者なのだ。 小さい人は「あ!?」を具現していた。 私たちは一瞬でわかりあった。 小さい人は私に歩み寄り、私を抱擁してくれた。 私は小さい人を抱き上げ、そして私たちは共にこの名無き世界を見た。 小さい人はものの影もない境界なき世界にしばしの別れをつげて、 私は長い彷徨の末帰郷する放蕩息子の懐かしさをもって。 間もなく小さい人もニンゲンになるだろう。 小さい人はそれを予感してる。 世界を分節する呪文を器用に習得しながら 文脈の中へ溶け込む二度目の誕生の晴れやかさと、 無文脈の全き世界を喪失する切なさとを共に感じているのだ。 小さい人もいつか再び「あ!?」に出会う日が来るのかも知れない。 そのときまで、さようなら小さい人。 もうすぐニンゲンだね。
☆ 語を使用すると言うことは文脈を受容すると言うことに他ならないのじゃないかな。なぜなら語の意味は他の語との関係、つまり文脈の中でしか決定されないからです。 しかし語は同一性を保って繰り返し使われなくてはなりません。私たちは普段そういうものとして言葉を使っています。ところがその一方で、文脈が異なれば語の意味も異なることも知っているのです。 文脈とは語のゲシュタルトです。それはシニフィエ・シニフィアン的レベルまでにおよぶ連辞連合関係の複雑な網目なのです。そのつながりは条理的で固定的なシステムを装いながらも、現実的には偶然的で流動的な隣接関係にあると言えるでしょう。(さらに言えば、繰り返しを保証する語の同一性が、同一なものとしての語にあるのではなく同一なものとして繰り返されることにあるのではないかという妙な気分がするのは私だけかなぁ?) ☆ シニフィエとシニフィアンはコインの表裏のごとく分ち難く同時に突如出現するように見えます。それもすでにつねに文脈の中での出来事なのです。 では語に先立って文脈があるのかというとそんなわけない。語と文脈は互いを前提にしているのでどちらが先とは言えないのです。と言うよりも線的な時間解釈の埒外なのだ。最初の発語と同時に文脈が現れ、文脈が現れると同時に最初の発話がなされたのでしょう。(こういう場合、整合性のバイアスが私たちの思考を停止させてしまい、ゲシュタルト崩壊に至ることができない。) そう考えると、語と文脈はビッグバンのように一挙に-まるで世界の開闢のように出現するのかも知れません。RealWorldとは決定的に隔絶した虚のバブルのようにして。 ☆ わたしたちはこのような語の虚なる体系、つまり文脈にディシプリンされることでニンゲンになるのでしょう。だから真正の「あ!?」を発する者は〝まだ〟もしくは〝もう〟ニンゲンではないのです。ニンゲンでないとは文脈から自由であると言うことです。文脈から自由であるとは出入自在であると言うことです。なぜなら文脈は無文脈の果てなき地に時折浮かび上がる絵柄でしかないからです。 ☆ ところで真正の「あ!?」とはなんだったのでしょう? それはシニフィエなきシニフィアン、文脈なき語とでも言っておきましょうか。 私は「あ!?」です あなたも「あ!?」です。 世界は「あ!?」です。 そしてそれ以外の何ものでもないのです。 ☆
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