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2010年01月03日(日) 

 

 

 

る日一人の有能で勤勉な弟子が努力の末、師の領域に到達した、あるいは超えたのではないか、と自他共に認める境地に達したとしましょう。彼は日々、師の技術を目標に己が技術を磨いてきたわけだ。どういうことかというと、師の技術と自分の技術の差異を少しでも減少させるために、つまり師とそっくりな水準まで、師を鏡とし、鏡に映る自分を自分のアイデンティティーとするべく、作品と自分を解体し差異化していく繰り返し作業を続けたのだ。なんとも受動的なモチベーションだが、そこにはそれなりに積極的と呼ぶこともできる既成の価値内での差異との戯れと未来へ生成することの悦びがあったことだろう。

ぜ受動的なのか。彼の努力のモチベーションはもっぱら目標との差異を減少させる方向に作品と自己を差異化することであったからだ。それはつまり既成の何かに似せるという再認的な制作態度である。目標というゴールがあるのだからいずれそれらしいものには到達するだろう。そして事実彼はそれらしいものに到達したということだ。だが目標に到達したと思えた瞬間から、彼の努力はさらに消極的で否定的なものに変貌してしまうのだ。

 

来せっかく到達した目標から再び異化してしまわないために、「ここ・いま」において秩序へと停滞した自らを破りさらに差異化し分化し続けようとする作品と自己を用心深く検閲して、継続反復される作品行為から差異を閉め出すという努力に変わってしまう。作品と自己を差異の過程に投入する反復から、差異化を抑制するための微修正的差異化の反復へと変わってしまったのだ。目標(=オリジナル)へ向かう反復とは、〝オリジナル=正=文化秩序〟へと向かう〝コピー=誤=差異の過程〟が自らの〝似ていなさ=差異〟を抜き取っていくことだ。このとき〝差異=似ていなさ〟とは〝差異=意味生成性〟という能動性とは正反対とも言える萎縮したものであることに注意されたい。悪いことに彼のオリジナルはすでに存在しているので、似ているかどうかは誰の目にも明らかだ。彼の制作のモチベーションはもともと差異に対して否定的な実体論的理想像(言うまでもなくそれは捏造であり、あるローカリティにおける共時的意味づけに過ぎないのだが)への同一化、つまりある特定文化秩序への参入にあったのだろう。たが、変化を固定するための反復はさらに反動的なクリシェ脚注1の反復となる。

そのようなある意味ストイックな反動的努力の結果、彼の作品は彼の設定した師とそっくりであるという目標を維持しつづけるだろう。いや、〝似たものを作る〟という技術に限定すればオリジナルを超えていると言うこともあり得るだろう。しかし彼から、そして作品行為の中からも、消失してしまったものが確かにあることを、たいてい本人も気づいてしまっているものだ。しかも失われたものが何かはっきりとは分からないまでも明らかに作品の生気(アウラ)に係わる、決して等閑に付すことのできないものであったことも知っているのだ。

が失われたのだろう。 

彼の作品行為からは定型や文法への停滞としての自己、文脈からからのネガティブオプションとしての自己を解体異化しようとする、つまり未来へと生成しようとする、肯定的な一面が失われたのだ。作品の同一性に、つまりは自己の同一性に拘泥することで作品行為はより消極的なものへと否定的なものへと変貌してしまったのだ。かくして彼は既成の価値common senseの中で一つの評価を獲得する。文化と言うイメージのクリシェ=共通感覚common senseが彼の逃走経路を奪い去るのだ。そして彼は半ば矜恃に満ちて、そしてもう半分は埋めがたい喪失感と失意に満ちてこう呟くのだ。

「あのときの作品を超えることができない」と。

 

動的な芸術労働者が見事誕生したのだ。ともあれその道のりには彼を一時は高揚させていたものがあったことは確かだろう。

それは何だったのだろう。

そして共通感覚common senseの中に真の開始はあるのだろうか。

 

そう。能動的なアーティストなら、他からのどんな理由にもよらず、いかなる主体の命令にもよらない理由から開始を試みようとするだろうししてしまうだろう。作品の理由を問われてもアーティストには答えられない方が自然だし、説明をすればするほど、つまり言語化すればするほど作品から遠ざかる、あるいはもっと悪い事に作品の多重意味的な生気を損なう事になりかねないだろう。アーティストは自分の作品についてほとんど知らないものだし、特に知る必要もないだろう。しかしアーティストを突き動かす欲動が確かにあり、アーティストを通して分化し現実化しようとするからアーティストは作品行為へと赴くのだ。そしてそのようなアーティストにとって作品行為とは、潜在的なその理由に自ら生きることをもって解答を試みることなのかもしれない。

 

それらについてはまたいつかお話ししましょう。

 

 


脚注

1:クリシェcliche 常套句、決まり文句

 

●写真はフォボス。ホコリまみれにしてみました。もちろんなんの意味もありません。(クリックすると大きくなるよ)

 

 

 


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