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2010年01月02日(土) 

 

 

 

 

が工房の妻側の一番高いところに大きな巣をした。

巣分かれを待って撤去しようとしたが、いつまでも蜂の出入りが続く。

12月に入ってようやく出入りする蜂の姿が見えなくなった。

しかし、もしまだ中にいたらかなわない。

そこで子どもが小さいころ使っていたおもちゃのピストルを使ってみた。

プラスチックの小さな球形の弾丸を圧縮空気で発射するものだ。

 

その後工房にピストルは置いたままになっていた。

知人がそれを見て、もっと本物っぽい良いのがある、と言う。

より威力のある本物らしい弾丸を発射するとかではなく、まったく同じプラスチックの弾丸を発射するおもちゃのピストルだが、より本物らしいほうが良いとされるかなり閉鎖系(=マニアック・他の系では意味を成さない)の価値の世界があるのだろう。

 

なるほど!そう言うことか。

ニセのブランド品でもやっぱりより本物らしい方が価値があるだろう。

ニセのダイヤモンドでも、ニセのゴールドでも、より本物らしい方が価値があるだろう。

それはきっと当然のことだ。

ニセの紙幣だってより本物らしい方が価値があるに決まっている。

本物そっくりの方が絶対値打ちがあるのだ。

「本物は見せかけそのものであり、見せかけは最高の形相eidosなのだ」なんてプラトンも言ってるしね。

 

ま、そんなわけで、最初にどこかの誰かが本物らしいもの(コピー)を作り始めた、または本当らしいことをやり始めたのだ。

もし本当に本物があったとすれば、本物は別に本物らしく作る努力は必要ではないし、本当のことは別に本当らしくする必要はなかったが、本物らしいものは本物じゃないからより本物らしくする努力をしたんだね。

たゆまぬ研鑽の結果ようやく本物らしくなったころ、また別の誰かが苦心の末到達した「本物らしいもの」の〝本物らしいもの(コピー)〟を作り始めたのだ。

以下同様に長きにわたり本物らしいものの本物らしいもの、本物らしいものの本物らしいものの本物らしいもの、本物らしいものの本物らしいものの本物らしいものの本物らしいもの…を追求する連鎖が続く。

意味の上に意味を重ねるようなこのようなやり方は、作品に過剰な意味づけを行うばかりで作品の自律性は失われていく。

つまり作品の意味の可能性、その多重性、多様性、浮遊性、未決定性が失われて行くのだ。

しかしその初めにはもはやどこの誰ともわからない、本物だったかどうだかも分からない本物のオリジナルがあったと一般的には考えるわけだ。

あくまで本物がなくては落ち着かないわけだ。

しかし物事はそんなに単純ではない。

タマネギの皮をむくように〝本物らしいもの〟の皮をむいていく。

ところが剥いてもむいても〝本物〟には到達しない。

そしてやがて知るだろう。

文化にオリジナルなどないことを。

文化の底に横たわっているのは根源的臆見Urdoxaとしての言葉であることを。

そして到達不能の本物のオリジナルは明らかに本物らしいものより価値がないことを。

 

周知のように上記のごとき〝本物らしさ〝自然らしさを追求するアナロジック(相似)な芸術をオーソドクスと呼ぶ。

オーソドクスorthodoxとは基はギリシャ語で、オルトortho=正しい、ドクサdoxa=臆見と言う言葉からできている。(ドクサは推量や憶測にもとづく見解なのだから、オルト(正しい)ドクサって意味になってない。)

 本物ではなく本物らしさ、自然ではなく自然らしさの方が価値がある。

別の言い方をすれば〝言うまでもなく通用してしまう当然のこと〟つまりドクサの方に価値がある。

そう言うことなんだね!

オーソドックスとは自明なるものなのだ。

自明なるものに根拠はない。

なぜなら自明だからだ。

私たちはらしさ と言うマーヤーのベールを通して世界を視ることで、こんなに楽しく本物らしく生きることができるのだね。

「本物だけが持つ輝き」「本物をお手元に!」「○○君は本物の男だ」「本物を見抜く目を持つ私は本物だ」etc…

でも本物のピストルは剣呑だし、本当の自然は手に負えないものね。

やっぱり本物らしさこそ〝ほんもの〟なんだね。

 

〝らしさ〟の追求にもおもしろさはあるだろう。

でも作品行為としては目的的で消極的なんじゃないかな。

どちらかと言えば職人的な、あるいはデザイナー的な二次的制作の域内だろう。

作品行為はより本物らしくするための反復的苦行じゃないよね。

そんなものだったらやらないよ。

作品行為がおもしろいのは〝本当らしさ〟(アナロジック)よりも〝本当のこと〟つまりホモロジックな芸術行為そのものにあるからね。

それはズバリ自然そのものなホメオカオスな現象だ。

ホモロジックな作品行為の只中においては、自分があてなく差異化し分化していることさえ意識されることはないのだ。

言ってみれば〝本当のこと〟ってマーヤーのベールを取り払ってしまったってことだ。

アートってそんなベールなき世界をよーく見えるものintelligibleにする技でもあるんだな。

だから本物らしいものより価値がないんだねー。

むつかしいねー。

 

 

 

 

 


★ちなみに

画像上は直径2センチ弱の石ころです。スズメバチとはなんの関係もない、本物の石ころの画像です。本物のフィルターもかかってます。

画像下は本物の零円札。ちゃんと〝本物〟と印刷されてます。ご存じ赤瀬川源平作。

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