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2009年07月27日(月) 

 

 

 

 

老子は言う
名無し、天地の始め。
名有り、万物の母。」 と。
また、荘子は言う
「道は名無し」 と。
荘子の「道」とは老子の言う「天地の始め」、根元的「存在」=無(無は決して何ものでもないものではなく、また対象という意味における何かでもない。無は存在そのものなのである。---byハイデガー)のことを言うのでしょう。コトバ=名が個別的存在物を喚起すると言う、その消息を老子は語っているのですね。
コトバ=名によって「天地分離以前」つまり絶対無分節の連続体である「存在」から個々の事物が分節され限定された形で立ち現れてくる。そのような「名」が社会的言語コードとして固定されたものが共約可能なものdenotationとしての「意味」であり「価値」なのです。

芸術とは一種の高次言語、つまり一人の人間の絶対唯一的生体験(あなたの生きてきた・生きている・生きるだろう時空間を他の誰一人も、たとえあなたのクローンでも生きることはできないのです)に基づくコノテーションconnotationとしてのコトバなのではないでしょうか。このコトバは線的なデノテーションに比して、相反するものをも(デノテーションをも)含む面状性を持っており、共約不可能ですが共感communionは可能です。その故に芸術および芸術的な出来事は私たちの絶対唯一的生体験に基づきながら、自他分離以前、物心分離以前の名無き世界「天地の始め」へと私たちを帰郷させることができるのです。
コトバである以上、芸術もまた「名」の生成です。ただし、作品はけして「意味=名」に固定されることのない相互主観性としての「意味可能体」であり、制作とは「名」の生成(=意味作用)でありながら「名」(=限定)から逃走し続ける無限運動なのです。
制作において私達はあらゆる「名=意味」の立ち現れてくる根源へと、意味エネルギーの沸き立つ絶対無分節の「天地の始め」へと接近を試みます。制作の現場とは既成の意味など一つとしてない創造の原始の海です。創造=意味生成の絶対自由の領域なのです。

「名」なき生成流動する世界に 「名」を与え続けること。それは既成の「意味=名」の中でするネガティヴな二次的制作と似て非なることです。

アートとはこの名無しのゴンベな世界にいくつもの新たな名を与えつづけ、生成の流れとシンクロします。なぜなら生命現象とは生成であるからです。 そして生成とは、名無きものへと回帰し、異なるものへと変化し続ける流れだからです。

 

 


用語解説

 

denotation:言語記号の顕在的で最大公約数的な意味。辞書に書かれている言葉。

connotation:言外の意味。含意。重層的で多面的で常に揺れ動いている詩の言葉や音楽。

communion:心[感情]の交流, 霊的交感(be in communion with nature自然と一体になる

 

 


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