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2007年09月21日(金) 

 

 

 

手触りも…そしてコトバも、アートにおいては個体が存在性を表出する高次言語=詩(うた)とでも言うべきものです。
私たちが日常慣れ親しんでいる「分節言語」いわゆる伝達(コミユニケーシヨン)言語より先に(!)無意識の所作のような、あるいは存在が歌い出すような交感(コミユニオンcommunion)言語があるのではないでしょうか。きっと今の人間と違って太古の人間は交感言語でしゃべっていたのでしょう。

語には連続的な「もの」の世界に区切りを入れて「こと」に変える力があります。それは意味化作用とも言い換えることができるでしょう。つまり私たちが普段「もの」だと思っているものは、ほんとうは意味化済みの「こと」だと言うことです。ただし分節言語が作り出す「こと」と、交感言語が作り出す「こと」には生への関与性として看過し得ない違いがあるのです。

どう違うのかと言いますと、分節言語は「もの」から言語化できる部分だけを切り取り、意味と形を明確で固定的なものと化構します。このとき「もの」はその全体性を失ってしまうのですが、そのような言語が構造化して一見大地のように堅固な意味のシステムができあがっているのです。そのおかげで高度に記号化された私達の社会が存続しているわけです。もっとも、「大地のような」とはいっても対流する温かいミルクの表層に漂う薄皮よりも頼りないものであることは皆さんよくご存じのはずです。

ところがもう一方の交感言語は「もの」を無本質で曖昧な姿のまま浮遊させているのです。すると「もの」は間主観的な意味可能態として無数の読みを、つまり数限りない創造を誘発します。文学も音楽も絵画も彫刻も陶芸も建築も交感言語であると言うことにおいて同じなのです。

また、分節言語は事物の形を明確にします。どのようにして明確にするかといいますと、他との違いによってです。違いを否定的対立的にとらえることによって事物を明確にするわけです。そうして優劣上下善悪美醜などの二分法による言語的階層ツリーを築きあげます。困ったことに分節言語は、コミュニケートする当事者の意識にまったく上ることなくその否定性を発揮しているのです。

一方、交感言語は事物間の違いを、また事物間の違いと違いの間にある違いを認めたうえで、 その違いを産み出す源と交感するのです。あらゆる事象がその源から差異化し分化し現実化している、その振動を感じるのです。その振動が自分の内部にもあり、「いま・ここ」においても自分を異化し分化し現実化していることを悦びを持って作品(シーニュ)化するのです。

 

の生動するあるがままの世界とは、語り得ないもので出来ている語り得ない事象です。絵画も造形も音楽も、そして《いかなる花束にも不在の花》(マラルメ)を現前させる〝コトバ〟もアートと呼ばれるものは、分節言語によっては語り得ないあるがままの世界に意味を媒介することなく触れることのできる、直接的交感を可能にする《言葉のもう一つの面》なのです。それは「もの」を、そして私たちをも、無本質なまま、そのあるが姿のまま、瞬間瞬間においてたゆまみなく意味化するのです。

る小説家の作品が入試の問題に取り上げられたそうです。当の小説家がその問題に挑んでみて曰く
「解答の選択肢に正解は一つもなかった」
この言葉の意味は、出題者が小説を理解していなかった、もしくは出題者がおバカだったので、トンチンカンな解答の選択肢を列挙してしまった。と言うことではないのです。
小説の読みに一意的な正解などない。意味的にも修辞的にも文芸作品はコードの中に収まってなどいない。出題者の愚かさは解の作り方にあるのではなく、解などないものに解を作ろうとしたことにある。きっと小説家はそう言いたかったのでしょう。
試験という制度が正解を要請しているのです。要請に基づいて正解が捻出されます。正解はコード化されているから、上手に答えることの出来る者がいます。それが勝者という、そう言うゲームなのですね。私たちは正解を出さなければならないという強迫観念と正解を出せたという満足感で二重に馴致されてしまうのです。
覧なさい。文芸作品を読むときも音楽を聴くときも芸術作品を鑑賞するときも、真剣です。真面目です。深刻です。腕を組んでいます。眉間にしわを寄せています。それもそうです。作品を前に教科書的なたった一つしかない模範解答を読み取ろうと、硬直しています。脂汗がにじんでます。すごい形相です。評論や解説やムック本を読みあさります。鑑識的知識や外周的エピソードや商品的イメージを頭一杯ため込みます。なんとなく〝見識〟が身についてきた気になってきます。そうして
          『現に目の前にある作品からますます遠ざかっていく』のです。
これじゃいつまでたってもアートに出会う日はこないでしょう。なるほど「アートはムツカシイ」わけです。

こで本題です。アートは「わかる=理解する」ものではありません。あなたが真剣なのはわかりますが、努力の方向が違います。そもそもアートを「わかった」ところでたいした益はありません。せいぜい速成の通俗的ウンチクを述べ立て相手をウンザリさせるくらいがオチでしょう。

どうすれば良いのかって? 簡単です。「感じる=心解する」だけでよいのです。

では作品の前に立って目を閉じて力を抜いてください。畏れることはないのです。中途半端な知識などすっかり投げ捨てて頭を空っぽにして……はい! 目を開けて。その瞬間空っぽな身体に流れ込んでくるもの。それがアートです。

Il y a quelque chose! 何かがある 》

それは意味でもない、形でもない、わけのわからないバイブレーション。それが直接身体の中に流れ込んでくるのです。頭ではなく身体です。そこのあなた ! いま頭を使ったでしょう? それじゃバイブレーションは伝わらないじゃないですか。さあ、もう一度。目を閉じて。力を抜いて…。

ーティストは教養も徳もない太古の人のように作品を発っします。それは生きていることのパリントローポスPalintropos(相反するものをすべて含む)な喜びそのものの表出なのです。感じ方に正も誤もありません。上も下も、東も西も、過去も未来もありません。「ここ・いま」において、あなたはあなただけの感じ方で感じてください。そのときあなたの中に起こるバイブレーションに心を開いてください。それを感じましたか? おめでとう! それがアートなのです。ムツカシイことはなにもないでしょう?

 

 




閲覧数2,185 カテゴリ★アート でポニョ!★虫にも分かるアート講座-----好評連載中!!! コメント3 投稿日時2007/09/21 22:08
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chronosさん
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