形も音も色も手触りも…そして「コトバ」も、アートにおいては個体が存在性を表出する高次言語=詩(うた)とでも言うべきものです。 どう違うのかと言いますと、分節言語は「もの」から言語化できる部分だけを切り取り、意味と形を明確で固定的なものと化構します。このとき「もの」はその全体性を失ってしまうのですが、そのような言語が構造化して一見大地のように堅固な意味のシステムができあがっているのです。そのおかげで高度に記号化された私達の社会が存続しているわけです。もっとも、「大地のような」とはいっても対流する温かいミルクの表層に漂う薄皮よりも頼りないものであることは皆さんよくご存じのはずです。 ところがもう一方の交感言語は「もの」を無本質で曖昧な姿のまま浮遊させているのです。すると「もの」は間主観的な意味可能態として無数の読みを、つまり数限りない創造を誘発します。文学も音楽も絵画も彫刻も陶芸も建築も交感言語であると言うことにおいて同じなのです。 また、分節言語は事物の形を明確にします。どのようにして明確にするかといいますと、他との違いによってです。違いを否定的対立的にとらえることによって事物を明確にするわけです。そうして優劣上下善悪美醜などの二分法による言語的階層ツリーを築きあげます。困ったことに分節言語は、コミュニケートする当事者の意識にまったく上ることなくその否定性を発揮しているのです。 一方、交感言語は事物間の違いを、また事物間の違いと違いの間にある違いを認めたうえで、 その違いを産み出す源と交感するのです。あらゆる事象がその源から差異化し分化し現実化している、その振動を感じるのです。その振動が自分の内部にもあり、「いま・ここ」においても自分を異化し分化し現実化していることを悦びを持って作品(シーニュ)化するのです。
この生動するあるがままの世界とは、語り得ないもので出来ている語り得ない事象です。絵画も造形も音楽も、そして《いかなる花束にも不在の花》(マラルメ)を現前させる〝コトバ〟もアートと呼ばれるものは、分節言語によっては語り得ないあるがままの世界に意味を媒介することなく触れることのできる、直接的交感を可能にする《言葉のもう一つの面》なのです。それは「もの」を、そして私たちをも、無本質なまま、そのあるが姿のまま、瞬間瞬間においてたゆまみなく意味化するのです。 そこで本題です。アートは「わかる=理解する」ものではありません。あなたが真剣なのはわかりますが、努力の方向が違います。そもそもアートを「わかった」ところでたいした益はありません。せいぜい速成の通俗的ウンチクを述べ立て相手をウンザリさせるくらいがオチでしょう。 どうすれば良いのかって? 簡単です。「感じる=心解する」だけでよいのです。 では作品の前に立って目を閉じて力を抜いてください。畏れることはないのです。中途半端な知識などすっかり投げ捨てて頭を空っぽにして……はい! 目を開けて。その瞬間空っぽな身体に流れ込んでくるもの。それがアートです。 《 Il y a quelque chose! 何かがある 》 それは意味でもない、形でもない、わけのわからないバイブレーション。それが直接身体の中に流れ込んでくるのです。頭ではなく身体です。そこのあなた ! いま頭を使ったでしょう? それじゃバイブレーションは伝わらないじゃないですか。さあ、もう一度。目を閉じて。力を抜いて…。
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